還るべき場所・1/3
だが、僕には何も見えなかった。とにかく、結衣を部屋から出さなければ…そう感じた僕は彼女をクローゼットから引きずり出した。
その時だった。クローゼットのカーテンが部屋の内側に向かってバタバタと激しくはためき始めた。有り得ない。体が総毛立つのを感じながらも、未だに放心状態で、カーテンから目が離せないでいる彼女を何とかしなくてはならなかった。僕はこの部屋から出すために彼女を引きずりながらズルズルと入り口へ向かおうとしていた。
玄関に目を向けると、そこには小さな少女がこちらを向いて立っていた。身長は100cmもない。黒の長髪、汚れた白っぽい服。けれど少女には黒い霧のような物が纏わり付いており、はっきりとは見えない。しかし恐ろしい存在感があった。部屋の壁や空気が細かく振動し、ブブブブブブブ‥と重低音が伝わってくる。現実とのギャップに僕は完全に取り残されていた。僕は出来るだけ恐怖を押さえ込もうと、心を凍りつかせ、何も見ないように少女の横を通り抜けた。
扉を開くと、そこはあの穏やかな廊下だった。僕は結衣を座らせ、なだめた。すると彼女がようやく口を開いた。
「…ここには…いられない…」
消え入るような声だった。しかしあんな体験をしてしまったのだから、それは僕も同感だった。僕は彼女の荷物を回収するために、意を決して、また彼女の部屋のドアを開けた。
少女はもういなかった。しかしカーテンは未だに少し揺れている。暗い蛍光灯の光と重苦しい空気の中、急いで彼女の荷物をキャリーバッグに放り込み、足早に部屋を出た。
するとそこにあるはずの結衣の姿は無かった。
(さっきまでここで…!)
その時、あの重低音が響いた。視界に入るものすべてが振動し、目眩を引き起こした。霞む視線をやっとのことで音の先に向けると、廊下の遥先に黒く大きな何かが揺らめいている。結衣もまたそこにいた。彼女を呼ぼうとしたが、声が出せずにいると、その黒い何かはゆっくりとこちらを向いてこう言った。
「 quarantine 」
それの顔は白いカラスだった。
8月16日 04:12
僕は携帯の着信音で突如目を覚まされた。
何故かまるでシャワーを浴びたかのように全身が汗で湿っている。この不快感には耐え難いものがあったが、ひとまず早朝の4時に電話をかけてきた無礼者を確認してやろう。
・・・知らない番号からだった。何の気も無しに寝ぼけた声で電話にでた。
「もしもし?」
「もしもし、大沢さんですか?」
「はい、そうですけど…」
「私、中谷と申します。娘があなたと同級生だったようで・・」
背中の汗が急激に冷えるのを感じた。今になってようやくこの汗の理由である、あの異常な夢を思い出したのだった。
(あの夢に出てきたのは確か…)
「―――――さん―――沢さん、聞こえますか??」
「あ、ああ、ええ聞こえています。」
「それで、行方に心当たりは有りませんか?」
「え?行方?結衣さんの行方ですか?」
「ああ、聞こえていなかったんですね…実は最近あの子高熱が続いていたんです。それで、20時頃に娘に電話して、急遽娘のアパートへ向かったんですが不在だったんです。携帯も電源が切れているようですし…それで中学、高校と仲の良かった大沢さんにお電話を…」
「ああ、そうでしたか…すみません、結衣さんとはここしばらく連絡をとっていないので…お力になれそうにありません…すみません。」
「そうですか…有難うございます。夜分遅くにすみませんでした。失礼します。」
「あ、いえ……あっあの!…―――――」
そこで、電話は切られてしまった。今自分は一体何を言おうとしたのだろうか。それを考えてバカらしくなった。明日はバイトだし、とにかくもう少し寝よう、そう思い、寝巻きを着替えて眠りについた。
8月16日 15:25
ようやく、大学でのバイトが終わった。僕は大学の図書館で、司書のようなバイトをしていた。夏休みだからと言って、皆が帰省するわけではない。この大学は本当に全国から入学してくる。中には北海道や四国、九州の学生も大勢いる。そういう学生は帰省するだけで、何万という金が飛ぶから、帰らずにバイトをしたほうが儲けものというわけだ。僕や佐藤も例に漏れずそのパターンだった。あとはサークルの大会がある、なんてパターンもある。それに4年や修士の学生は研究室が忙しいため、帰らない人も多い。そういうわけで、夏休みで暇そうな図書館にも仕事はあるというわけだ。僕は10時から約5時間、物性Ⅰと電子デバイス工学の課題をして時間を潰した。専門は仕方ないにしても、線形代数は大嫌いだった。だいたいあんな数学、この先どこで使うというのか…一度そう思ってしまうとどうでもいい教科に早変わりしたのだった。中国語は…言うまでもない。とにかく寮に戻って夏休みの課題を上げてしまおう、そう思った時、僕は今朝の電話のことを思い出した。
そういえば結衣も帰省してなかったのか。じゃあ彼女はサークルにでも出ているのだろうか?あの夢のこともあって妙に気にかかった。結衣は同じ大学ではあるが、彼女は看護学部だった為、キャンパスが少しだけ離れていた。そのせいか、お互い共通の友達もなく、高校の時のようにつるむこともいつの間にか無くなってしまった。彼女はイタリアの血を引いたクォーターだった。昔結衣に自慢げに聞かされた話だと、母方のおじいさんがイタリア人で、祖先はミラノのお偉いお医者様だったらしい。そのせいか日本人には珍しい敬虔なカトリックの家系だった。僕は高校の頃、彼女に好意を抱いていたが、毎週日曜に礼拝に行かれてしまっては手の出しようがなかった。
とにかく僕は携帯を取り出し、久しぶりに結衣に電話をかけてみることにした。
…つながらない。電源が入ってないみたいだ。
嫌な予感がする。まさか今日の未明からずっと?…仕方がない、結衣の友達が何か知ってないか聞いてみよう、と思ったがその友達すら分からなかった。佐藤に電話をかけた。
「もしもし佐藤?今いい?」
「おう、どしたん?あ、そういやお前、熱力学演習の問題解けた?」
「いや、まだだわ(というか今思い出した)。ていうかさぁ、佐藤って看護に友達いる?中谷結衣って子知らない?」
「なんだよ…お前その子狙ってんの?」
「はぁ!?いや違うから!…ちょっと訳あって今その子を探してるんだよ。知らないんなら、何かつながりないかな?」
「看護なら、同じサークルに友達はいるけど…柳田ってやつ。」
「おお!さすが佐藤君!今すぐ紹介してくれない!?」
「え、今!?まぁこれからサークルで会うとこだし、お前も来ればいい。けど残念ながら柳田は男だ。」
がっかりはしていない。していない。1発で進展があっただけでも幸運だろう。佐藤は軽音楽サークルに入っていて、よく夜中に部室でギターの練習をしていた。部室は機材も防音設備も整っており、佐藤曰く「このマーシャルみろよ!すげーだろ!?」らしい。
作品名:還るべき場所・1/3 作家名:TERA