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海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】Ⅲ

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 どれほどの間、烈しい口づけを繰り返していたのか。漸く唇を離した時、眞矢歌は荒い息を吐きながら、眼を潤ませていた。長すぎる口づけのせいで、せっかく刷いた紅ははげ落ちてしまい、唇はふっくらと扇情的に腫れている。
 このまま押し倒して、強引に最後まで奪ってしまいたい。悠理の身体は既にはっきりと欲望の徴(しるし)を表している。だが、悠理は今ここで、眞矢歌の身体を奪うつもりはなかった。
 今、抱いてしまえば、歯止めはきかなくなるだろう。きっと、今夜中、眞矢歌の身体を幾度も奪うことになる。
 だが、それは彼女を軽く扱うことになりかねない。かつて眞矢歌を都合良く利用し、無情にも棄てていった男たちと何ら変わりない。
 本当に惚れた大切な女だからこそ、尊重してやりたいのだ。きちんとけじめをつけるまでは、抱かない。それが悠理なりの眞矢歌に対する愛情と誠意の示し方なのだ。
 濃厚な口づけのために、眞矢歌のきちんと結い上げた髪が乱れてしまった。頬にはらりと落ちた前髪が妙に艶めかしい。
 悠理はその前髪を指で掬うと、そっと直してやった。
 半月が照らし出す浜辺の花は今、純白というよりは銀色に妖しく輝いて見えた。

♣永遠の女神♣

 翌日の夕方、悠理は保育園の方へ脚を向けてみた。眞矢歌はいつも夕飯の下ごしらえは休日に纏めて済ませておいて、小分けして冷凍庫に入れている。保育園から帰ってくるのは大抵、六時頃なので、帰ってきてから冷凍しておいたものを温めて調理の仕上げをする。
 料理の腕は確かなものだった。眞矢歌の母は彼女が小学生のときに亡くなったという。何でかまでは訊ねなかったけれど、病気が原因だと聞いた。
 以来、料理はすべて彼女が担当してきたというだけあり、レパートリーは豊富だし、味もなかなかいける。
 悠理の方は、早朝は漁に出て、獲った魚を競りにかけてから、帰宅。昼まで仮眠を取り、午後からは漁に使う様々な用具の手入れ、船の点検などを行わなければならない。自由になれるのは夕方以降で、今日もすべての仕事を終えてから、散歩がてら眞矢歌を迎えにいこうと思いついたのだった。
 網元の住まいから保育園は歩いても十数分程度しかない。公立ではなく、私立の認可保育園である。
 悠理は園の門前に佇み、眞矢歌が出てくるのを待つことにした。今は五時半を少し回った時刻で、迎えにきた母親たちに連れられ、次々と園児が出てくる。
 まだ乳飲み子もいれば、来年は小学校に入る年長の子どもたちもいる。時折、見憶えのある顔があるのは、例の〝向井理のそっくりさんを応援する会〟のファンクラブ会員になっている母親たちであった。
「向井クン、どうしたの?」
 悠理はいちいち、愛想の良い笑顔で対応するが、はっきりとした応えは返さない。眞矢歌と自分が付き合っていることは、いずれ放っておいても、この平和で小さな町中に知れ渡ることになるだろう。何もわざわざ自分から吹聴する必要はない。
「向井さん、こんばんは」
 気さくに声をかけて通り過ぎる母親たちだが、悠理ももう〝いや、俺は溝口ですから〟と否定するのも面倒くさくなった。
 そっくりさんなのに、何で〝向井クン〟なのかは判らないが、彼女たちがそう呼びたいのなら、まあ、呼ばせておけば良いと、静かな諦めの境地に至っている。
「向井のお兄ちゃ―ん」
 これも聞き憶えのある声に、悠理は微笑む。
 例のコンビニ前で出逢ったショートアの小学生である。
「妹がここに通ってるんだ」
 切りそろえた短い髪を揺らしながら、少女が飛び跳ねる。
「そうなんだ。お母さんと迎えにきたの?」
「うん。あっ、お母さんが呼んでる。じゃあね」
「気をつけて帰ろよ」
 女の子は少し先で待つ母親の許に急いで駆けてゆく。荷台に三歳ほどの女の子を乗せた母親は自転車を押し、悠理の方を見て軽く頭を下げる。
 悠理もまた頭を下げ、親子三人は横断歩道を渡って帰っていった。
 家族、子ども。心が温まる光景だ。
 しかし、自分は生涯、後悔することはないだろう。たとえ子どもは持てなくても、眞矢歌という、かけがえのない女に、彼だけの女神にめぐり逢えたのだから。
 不思議なことに、眞矢歌という存在を得てから、悠理の心は凪いだ海のように穏やかになった。もう、実里の夫となり、悠理の実の子どもの父となった柊路を恨めしく思うこともない。
 素直に柊路に感謝し、子どもの幸せを祈れるようになった。たとえ遠く離れていても、血の絆は絶てるものではない。これから先、父子と名乗り出ることはなくても、実里の生んだ子どもは悠理のただ一人の我が子なのだ。
 だからこそ、悠理は遠く離れたこの町から、我が子の幸福を祈ろうと思う。この世のどこかに、自分の血を分けた我が子が生きている―、そう思うことが、これからの自分を支えてくれるに違いない。我が子は知らなくても、自分だけは知っている。
 そんな風に考えられるようになった。
 ふと見上げると、暮れなずんでゆく夏の空が視界いっぱいに飛び込んできた。
 夕陽がよく熟れたオレンジのようにひときわ輝きを放ち、空は鮮やかなピンクと紫色で彩られている。
 ふいに潮の香りを乗せた風が悠理の前髪を揺らして通り過ぎていった。風にいざなわれるように振り向いた先に、彼女がいた。
 ウサギの大きなアップリケのついたピンクのエプロンをしている。次々に迎えにきた親に連れられて帰ってゆく子どもたちを見送っている。
「坂崎先生、バイバイ」
「せんせぇー、また、明日ね」
 眞矢歌は最年長の五歳児の担任だと聞いている。
 子どもたちは眞矢歌に満面の笑みを見せて帰ってゆく。眞矢歌もまた優しい笑顔で一人一人の子どもたちに手を振っていた。
 俺には、あんなとびきりの笑顔を見せちゃくれないぞ。
 などと、早くも彼女を独占したがっている自分に気づき、悠理は我ながら呆れた。
 俺の彼女は極上の美人なんだぞ!
 逢う人、逢う人にいちいち紹介して回りたいと思う。これはもう、重症である。
 眞矢歌を見ていると、ひとりでに頬が緩む。悠理は慌てて周囲を見回し、表情を引きしめた。幾らやっとできた彼女だからといって、あまりに締まりのない顔でにやけてばかりいるのも男として情けないではないか!
 子どもたちを見つめる眞矢歌の表情は慈愛に満ちていて、実に良い表情をしている。輝いているとでもいえば良いのだろうか。
 本当に根っからの子ども好きなんだな。
 悠理は少し離れた場所から、眞矢歌を見守りながら思った。その時、彼女の横顔が誰かに似ていることに気づいた。誰なのだろうと記憶を手繰り寄せようとしても、なかなか出てこない。
 と、次の瞬間、彼の記憶の底から浮上してきた一つの光景があった。
 ―マリア像。聖母マリアだった。そう、早妃が大切にしていたポストカードに映っているマリア像に、眞矢歌が似ているのだ。いや、眞矢歌の造作が似ているというよりは、表情そのものが似ている。深い慈愛に幾ばくかの哀しみと憂愁を漂わせたその表情は、まさしく御子イエス・キリストをその腕に抱く聖母そのものだ。
 その時、悠理の中をたとえようのない哀しみが駆け抜けた。彼は胸が引き絞られるような痛みに懸命に耐えた。