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海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】Ⅲ

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「それにしても、私も愕いたわ。まだこの町に来て一週間ほどなのに、もうファンクラブができるだなんて。―っていうか、大体、あなたも言ってたように一般人にファンクラブができるなんてこと自体が珍しいわよね」
 と、我が事のように嬉しげに顔を輝かせる。
 そのあまりに歓んでいる様子に、悠理は余計に面白くなくなった。
「へえー、眞矢歌さんって、俺にファンクラブなんかできて、そんなに嬉しいの?」
 つい意地悪な気分になって口にしてしまう。
 悠理の気持ちも知らず、眞矢歌は微笑んだ。
「それは少しは嬉しかったりするのは当たり前じゃない? だって、こうして一つ屋根の下に暮らしてるわけなんだから。自分のよく知っている人が人気者になれば、誇らしい気分にだってなるわ」
「誇らしい?」
 悠理は心外なことを聞いたとばかりに、眉を跳ね上げた。
「俺は別に人気者になんてなりたくないよ」
 そう、かつて早妃が生きていた頃に思ったものだ。
 男はたった一人の女にとってナンバーワンでありさえすれば、それで十分なのだから。
「そうなの? 私は悠理さんがそんなに嫌がってるとは思わないから、嬉しくてつい」
 口ごもる眞矢歌に、悠理は矢継ぎ早に言う。
「俺の気持ちなんて、この際、どうでも良いんだ。眞矢歌さんは嫉妬したりしないのかな」
「―嫉妬?」
 眞矢歌の黒い瞳が大きく見開かれた。
「それは、どういう意味?」
 悠理は眞矢歌の顔を真正面から見つめる。どうやら、その表情では本当に意味を解しかねるといった風情である。
 悠理の中で大きな喪失感がひろがっていった。
「だから。俺にファンクラブができて、嫌だなとか、思わないの?」
「特に嫌だとは思わないけど。それがどうかしたの?」
 小首を傾げた眞矢歌の表情はどこか幼くすら見えて。
 悠理の身体の奥底から烈しい感情がほとばしり出た。
「だから! 眞矢歌さんはファンクラブの女の子たちに嫉妬したりなんかしないのかって訊いてるんだ」
「何で私が嫉妬するの?」
 ああ、この女は全然、判っていない。きっと惚れているのは自分だけで、眞矢歌は俺のことなんか何とも思ってはいないんだ。
 またしても、好きな女に見向きもされない―、その事実が悠理に向かって残酷に突きつけられる。
「そうだろうね。どうせ眞矢歌さんは俺なんて眼中にもないんだろうからね」
「悠理さん、何をそんなに怒っているの?」
 眞矢歌は本当に困ったような顔だ。うっすらと涙ぐんでいるようですらある。
 別に好きになったのは悠理の一方的なもので、それに応えなかったからといって、眞矢歌が悪いわけではない。それでも、悠理は止まらなかった。
 自分が大人げないふるまいをしていることも判っている。好きな女を泣かせるのは男として最低だとも認識していた。
 駄目だ、それ以上、言うな。心の中でもう一人の自分がしきりに警告していた。だが、悠理はとうとう勢いで口にしてしまった。
「まだ判らないのか? 君は本当に鈍いね。俺は眞矢歌さんのことを好きなんだ!」
 言ってしまった言葉は二度と取り戻せない。悠理は身体を強ばらせ、眞矢歌を見つめた。
 気の毒に、予想外の展開に眞矢歌の小さな顔は、すっかり蒼褪めている。
 その戸惑いしか示さない表情がすべてを物語っていた。彼女には悠理との恋愛なんて、考える価値すらないのだ。―もしくは傍迷惑なだけなのか。
 どっちでも良い、見込みがこの先、ないのはどちらにしても同じことではないか。
 もしかしたら、自分はどこかで良い気になつていたのかもしれない。数日前、眞矢歌が自分をそっと抱きしめ、〝過去はもう忘れて〟と優しく言ってくれた―そのことを勝手に勘違いしていたのだ。
 あれが何か特別な意味を持つ行為だと、どうして一瞬でも考えてしまったのだろう。悠理にとって眞矢歌が特別な存在であるように、彼女にとってもまた自分は特別なのではないか、と。
「ごめん、こんなことを言うつもりはなかった」
 悠理は低い声で言うと、居たたまれなくなって眞矢歌の前から逃げるように立ち去った。

 その日の夜、悠理は浜辺にいた。夕食後、眞矢歌がすれ違いざまに囁いたのだ。
―後で浜辺に来て。
 何故、急にこんな場所に呼び出されたのかは判らなかった。恐らく、今朝の出来事に関するのは間違いない。
 迷惑だから、止めて欲しいとか、想いには応えられないとか、そんなことを言われるのだろう。別にわざわざ呼び出してまで拒絶しなくても、眞矢歌に受け容れるつもりはないのに、無理に迫るつもりはなかった。
 心が伴わなければ、無理強いしたって意味はない。そのことを、悠理は誰よりも身をもって知っている。
 七月から八月にかけての今の時期、この浜辺からは海ほたるを眺めることができる。今、この瞬間も前方の海が淡く発光している。それは例えるなら、水の中でネオンが輝いているように見えた。いや、ネオンなどという人工的なものではなく、もっと自然に近いもの、海の中で宝石が煌めき輝いているような、水そのものが光っているような眺めだ。
 綺麗だと心から思った。どんな名人が作り上げる細工物も、自然のなせる驚異の前には到底及ばない。自然こそがこの世で最高の美を作り上げることができるのだろう。
「遅くなって、ごめんなさい」
 眼の前で次々とくりひろげられる壮大かつ幻想的なドラマに魅入っていると、突如として眞矢歌の声が聞こえた。
 振り向くと、いつもとは違う眞矢歌がそこにいた。ほっそりとした肢体を浴衣に包んでいる。白地に薄紅の浜ゆうの花が散った、この地に住む娘らしい柄だ。着物が少しおとなしめの分、帯は若い娘らしく華やかな紅色。艶やかな黒髪はすっきりと結い上げ、控えめなガラスの玉簪が飾っている。
「―凄く似合ってる。素敵だ」
 朝の出来事も忘れ、悠理はつい口にしていた。それほど今夜の眞矢歌は綺麗だ。いつもは清楚な印象が強いが、今は清楚な中にも、しっとりとした大人の女の色香が滲み出ている。
 これはまずい。二度、惚れてしまいそうだ。
 艶姿に見惚れていた悠理は慌てて眞矢歌から眼を背けた。
「悠理さんに、ここからの眺めを見せたくて」
 眞矢歌はうっすらと微笑んだ。
「綺麗だね。眞矢歌さんも海ほたるも」
 悠理は視線を海に向けたまま言った。
「悠理さんは口が上手いのね。例の保育士の後輩が不思議がってた。何で、あんなイケメンで女性あしらいも上手な洗練された人がこんな小さな田舎町に突然現れたのかって」
「お世辞じゃない。俺は本当に思ったことしか口にしない」
 特に惚れた女の前では、心にもないことなんて言うものか。
 口には出させない科白をぐっと飲み込む。
「今朝は、申し訳ないことをしたわ。私、そういうことには特に鈍いから、全然判らなくて」
 眞矢歌の平坦な口調からは、悠理の告白を迷惑がっているのかどうかまでは判らない。かといって、けして歓んでいるようにも見えなかった。
「あれはもう良いから、気にしないで。告白して謝られるのって、男にとっては結構な屈辱なんだから」
 悠理は依然として光り輝く海面を見つめている。
「明日の朝には、ちゃんとここを出ていくつもりでいるし」
「何故、出ていくの?」