小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】 Ⅱ

INDEX|3ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 恐らく自分が甘かったのだろう。女にとって抵抗を力でねじ伏せられ、身体を奪われる―これ以上の屈辱はない。しかも、実里はバージンだった。それをレイプという最も残酷な形で根こそぎ奪われ、滅茶苦茶にされた挙げ句、レイプした男の子どもを宿した。
 その時点で、実里が悠理を殺したいと思うほど憎んでいたとしても不思議ではない。
 折角授かった生命を抱えた実里が自分のために自殺などしたら一大事である。悠理にとって、実里の胎内に宿った二人めの我が子は、生きるすべての支えであった。実里の側にいて、我が子の誕生を見守りたいという想いは強かったけれど、実里の気持ちを考えれば、身を退くしかなかった。
「もう、誰を信じて良いのか判らなくなった。こんな世界に生きていても仕方ないと思って、そうしたら、ふっと海が呼んでいるような気がして」
 眞矢歌の声がふっと耳を打ち、悠理は現に引き戻される。今は、彼女の声が―実里の声にも重なって聞こえた。
―こんな世界に生きていても仕方ないと思って、そうしたら、ふっと海が呼んでいるような気がして。
 ああ、俺は何ということをしでかしたんだ。
 自分はけして許されないことを犯してしまったのだ。
 悠理の眼に熱いものが滲んだ。堪え切れずに溢れたひと滴の涙が頬をつたい落ちてゆく。
 実里と〝あの出来事〟について語り合えるはずもなく、時は過ぎた。しかし、今、全く無関係であるはずの眞矢歌の口を通して語られるすべての言葉があたかも実里の味わった哀しみや苦しみであるかのように悠理の心に迫ってくる。
「それで、海に入って死のうとしたんだ?」
 声が震えないようにするのが精一杯だった。
 眞矢歌がかすかに身じろぎする。それは頷いたようにも見える仕草だった。
「堕胎手術は受けなかったけれど、結局、あの人の思うとおりになったわ。赤ちゃんは流産して、いなくなってしまった」
 眞矢歌の手には、まだ浜ゆうの花束が握りしめられている。彼女は淡々と語りながら、その一本、一本を海に流してゆく。
 白いたおやかな花はこれから安らかな眠りにつこうとする嬰児(みどりご)のように波に乗り、どこかへと運ばれてゆく。ゆらゆらと波に漂い、すぐに沖に運ばれて見えなくなる。
 もし花が本物の赤ん坊ならば、白い波はこの世の光をついに見ることもなく逝った小さな生命を抱く揺りかごになるだろう。
 眞矢歌が流してゆく花たちの一本が彼女の喪った子であるなら、他の一本は早妃の胎内にとどまったまま逝った一人目の子なのかもしれない。
 十本以上あった花をすべて波間に流してもなお、眞矢歌は白い花たちが消え去った沖合を名残惜しげに見つめていた。その瞬間、やはり悠理の部屋に浜ゆうを飾っていたのは眞矢歌であったことを彼は知った。
「小さな港町では、高校生の妊娠は大変なスキャンダルだったの。私はそれが原因で高校は中退する羽目になって、父が何とか地元の郵便局で仕事を見つけてくれたんだけど」
 眞矢歌は依然として彼方を見つめたまま話し続ける。
 郵便局に正職員として入った眞矢歌に、その三年後、転機がもたらされるかに見える。相手は都会の大学を卒業して新採用されたばかりの郵便局員、つまり同僚であった。年齢的には眞矢歌より三つ年上だが、局では彼女の方が先輩になる。
 ということで、眞矢歌は新入りの彼に先輩として色々と指導に当たることになった。若い二人が急接近するのは自然のなりゆきともいえる。
 つきあい始めてから半年後、眞矢歌は彼から正式にプロポーズを受けた。もちろん、彼は眞矢歌の過去はすべて承知の上で結婚を決意したのだ。眞矢歌は幸せだった。三年前は彼の酷い仕打ちに泣いたけれど、その分、神さまはちゃんと見ていて、自分により大きな幸福をくれたのだと思った。
 けれど、運命はどこまでも残酷だった。当時、眞矢歌は下腹部の痛みを憶えることが多かった。体調も思わしくないので、近くの内科を受診したら、紹介状を書くからと隣町の大きな婦人科に行くようにと言われたのだ。
 診断結果は子宮筋腫。しかも重度だといわれた。軽症であれば薬を服用して様子を見ることも可能だが、ここまで重度になると、根治治療しかないと宣告される。
 しかも、医師からは言われた。
―残念ですが、子宮摘出をしなければなりません。
 つまり、子どもはもう永久に望めないということだ。眞矢歌は泣いた。もちろん、恋人も理解してくれると思った。でも、今度も男は彼女の許から去っていった。
 相手の男は眞矢歌の過去は許せても、子どもを望めないという事実を受け容れることはできないと言ったのである。
「人間にとって、子どもを望めないというのは大きな問題だわ。だから、私、申し訳ないと繰り返す彼を責めることはできなかった。私自身、もう赤ちゃんが産めないなんてことを認めたくなかったし、誰かが嘘だって言ってくれるはずだと思ってたくらいだもの。優しい男(ひと)だったから、もし私が泣いて縋れば、もしかしたら結婚してくれたかもしれない。でも、そんなこと、できっこないでしょう。私の不幸な運命にあの人まで巻き込むことはできないもの」
 眞矢歌の声が今度ははっきりと震えた。
「私は―ここではないどこかへ誰かが連れていってくれるのをずっと待っていたような気がするの。いつか知らない誰かが誰も私を知る人のいない遠い町に連れていってくれる―そんな儚い幻想を抱いていた。そんな馬鹿なことがあるはずもないのに。ただ現実から逃げたかっただけなんでしょうね」
 その声音に潜むあまりの哀しみに、悠理は息を呑んだ。
 悠理の頭にイメージが渦巻いた。他の男に良いようにされている眞矢歌の身体。挙げ句に棄てられ、しおれた花のように打ちひしがれている姿。
 吐き気が込み上げ、視界が怒りで黄色く染まるような気がした。嫉妬だ。これまで想像もつかなかった感情である。
 だが、次の瞬間、嫉妬は消えていった。そうだ、つい先刻も自分は考えたばかりではないか。過去は何の意味も持たない。彼女の過去も同様に。
 すべて語り終えた後、眞矢歌は長い吐息を落とした。それは長年一人で抱え続けてきた鬱屈を吐き出した、安堵の溜息に見えた。
 悠理はこの時、思った。
 この女―眞矢歌は俺と同じだ。過酷な現実から眼を背け、ひたすら逃れたいと思い続けた。彼もまた、ここではないどこかへ行きたいと願っていたのだ。早妃や実里、我が子の想い出から逃れて、誰も自分を知らず、自分もまた誰一人知る人のいない遠い町で暮らしたいと思っていた。
 ここではない場所ならどこだって良い。
 遠くへ、ひたすら遠くへ。
 ここではないどこかに誰か、俺を連れていってくれ。
 魂の咆哮がもしかしたら、故郷から離れたこの小さな港町に届いたのだろうか。孤独な魂と魂が図らずも呼び合い、引き寄せられるように自分たちはめぐり逢ったのだろうか。
 悠理は普段から現実志向で、迷信や運命論などおよそ信じる質ではなかった。しかし、今、自分にあまりにもよく似て心に深い孤独と闇を抱える眞矢歌という女にめぐり逢い、この世には人間には理解できない不思議な運命の力というものが働いているのではないか。ふと、彼らしくもなく考えてしまう。