海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】
確かに少しは綺麗かもしれないが、所詮は田舎娘ではないか。あの程度の女なら、これまで数え切れないくらい見てきたはずなのに、何故か、あの女のことが無性に気になってならない。それに、あの香り。
脳髄を痺れさせるような蠱惑的でいて、それでいながら、清潔感をも失わない。あたかも、今、彼の側を通り過ぎていったばかりの女のようだ。清楚さと成熟した女の妖艶さを同居させて、不自然どころか、ごく自然な美しさを醸し出している。
悠理も二十三歳の健康な男である。性的な欲求は人並みにある。ホスト時代に金と引きかえで客と関係を持ったのを最後に、それからは一切、女を抱いていない。風俗に行けるくらいの持ち合わせはあるにはあったけれど、心の通わないセックスをしても空しいだけに思えた。
自分がかつてそうだったから、悠理には判るのだ。風俗嬢が客と寝るのは、あくまでも金のため。彼女たちにとっては、それが仕事だからだ。ホストが女性客とホテルに行くのも金儲けのためだ。仕事と割り切っているから、どんなご免蒙りたいような女でも眼を瞑って身体を重ねた。
そんな関係は所詮、肉体の一時的な欲求を満たすだけにすぎない。いや、心の伴わないセックスであれば、もしかしたら、身体だけさえも満たされないのかもしれない。―などと言えば、かつてのホスト仲間は腹を抱えて大笑いするに違いない。
―お前、その若さでもう使えなくなっちまったのか?
と。確かに、そう揶揄されても仕方ないほど、悠理は金のためなら何でもした。早妃と正式に籍を入れてからは流石に止めたが、彼女を失い、実里をレイプという形で抱いたのを境に、再び請われれば客と寝るようになった。
あの頃は実里の豊かな肢体を思い描きながら、自分よりはるかに年上の女たちを抱いたものだ。思えば、あれは実里に予期せず惚れてしまった自分の荒れる心をごまかすための手段に違いなかった。
関係を持ったにも拘わらず、顔も名前も思い出せない女がごまんといる。それほど放埒な荒んだ日々を送っていたのだともいえた。
だから、今になって欲求不満が高じたとでも?
悠理は半ば自棄のような気持ちになり、心の中で悪態をついた。
冗談ではない。金のためには大勢の客と寝たが、やっと見つけた仕事先で雇い主の娘に初対面で欲情するほどの鬼畜ではないつもりだ。
だとすれば、何で、あの女のことがこんなにも気になる? 悠理は自問自答する。
刹那、先刻見たあの瞳が甦った。
黒い、幾つもの夜を集めたような漆黒の瞳。少しだけ潤んだ瞳はどこまでも深くて、まるでじっと見つめ続ければ、奥底に魂まで絡め取られそうだ。あんな不思議な魔力を秘めた双眸を持つ女を悠理は少なくとも二人は知っている。
一人はとうにこの世を去り、死別という形で失い、今ひとりは生きてはいるが、けして添えず結ばれぬさだめの女である。
そうだ、あの女は早妃と実里に似ているのだ! 悠理の心を烈しい衝撃が駆け抜けた。
容貌の問題ではない。―確かに、女の楚々とした風情は早妃にどこか似通っていないこともないけれど、それほど似ているというわけではなかった。ましてや、似ていると感じた実里は容貌だけでいえば、早妃とは似ていなかった。儚げな顔立ちの早妃に比べ、実里は今風の華やかで愛らしい顔立ちをしていた。
それでも、悠理は早妃と実里が似ていると思ったのだ。そう、容貌などではなく、魂の奥深い部分に、あの二人には共通しているものがあった。優しさとか、折れそうに脆く見えるのに、存外にしなやかな強さを持っているとか、何があっても、凜として人生に立ち向かおうとする一途さ。
ちょうど、悠理の部屋で見た、誰が活けたとも知れぬ純白の花のように、たおやかでいながら凜として前を向いている。そんな佇まいが二人の―いや三人の女たちにはあった。
俺は、一体―。
悠理は唇を噛みしめて、前を睨み据えた。
馬鹿な考えは棄てろと自分に言い聞かせる。たとえ、網元の娘が早妃や実里に似ているとしても、愚かな自分がひとめ惚れしたのだとしても、この想いを表に出すわけにはゆかなかった。
生まれ故郷を逃げるようにして出てきて、偶然立ち寄った町で、やっと見つけた仕事なのだ。運命の神さまは意地悪なものだ。仕事だけでなく、久方ぶりに訪れた恋までをも同時に与えてくれるとは。
だが、その偶然に訪れた恋がこの場合、けして自分に良い結果をもたらすとは思えない。第一、相手の女は自分が声をかけただけで、あんなにも警戒心を漲らせていたではないか。
女の中には動物的に鋭い勘を持っている者がいる。女に害をなすような男―遊び人、不実な人間などは嗅覚というか本能で嗅ぎ分けられるのだ。恐らく、あの女はそういった女特有の勘で、悠理が信用するに値しない男だと瞬時に感じ取ったのだろう。
これ以上、あの女には拘わらない方が良い。それが自分だけでなく、あの女にとっても無難なはずだ。これまで悠理に拘わった女たち―早妃も実里も不幸になった。自分自身が不幸の星を背負っているから、拘わり合った女たちまでをもその不幸に巻き込んでしまうのではないか。
自分は五歳で母親に棄てられ、十七歳で父親を失ってから、水商売に入った。最初のバーテン仕事は長くは続かず、直にホストクラブに在籍するようになった。そんな中でめぐり逢った早妃とやっとささやかな幸福を得たと思ったけれど、あの事故で早妃とそのお腹の我が子までをも失った。
復讐として実里をレイプした結果、彼女は妊娠。子どもは無事に生まれたものの、悠理は図らずも愛してしまった実里と結ばれることもできず、我が子に父と呼ばれることもない。
二十三年というけして長すぎはしない生涯は、けして幸福とはいえなかった。だから、自分はきっと、どうしようもない不幸の星の下に生まれてしまったのだ―と、いつしか悠理は果てのない諦めを心の中に抱えるようになった。
また、諦めるより他なかった。自分は不幸なのだから、幸福にはなれっこないのだと思い込んでしまわなければ、誰かを恨んでしまいそうで、怖かった。
もう、誰かを恨むのも憎むのもたくさんだ。復讐という名の下に近づいた女に心奪われ、悠理はかえって残酷な罰を受けることになった。愛してもけして報われぬ女を愛し、今度こそ我が子が無事に生まれたというのに、その我が子を永遠に手放すことになった―。
もっとも、幾ら最愛の妻を失った絶望に囚われすぎていたからとはいえ、彼は実里に対して許されざる罪を犯してしまった。自分が彼女に対して行った酷い仕打ちからすれば、今、彼女への実らぬ想いに苛まれるのも、ただ一人の我が子に逢えぬのも当然の報いかもしれない。
だから、けして、あの女に近づいてはならない。悠理は唇を噛みしめながら、緩慢な足取りで元来た道を戻り始めた。
同じ日の夜になった。
夕飯の後、悠理は網元に呼ばれ、階下に降りていった。この家では、夕食は厨房からは廊下を挟んで向かい合う居間で食べる。夕食を運んできたのは、やはり、あの女―早妃と実里に似ていると思った女性であった。
服装は朝、見かけたときと変わらない。その上に白と赤のギンガムチェック模様のエプロンをつけていた。
作品名:海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】 作家名:東 めぐみ