小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】

INDEX|5ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 だが、そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。折角見つけた仕事を寝坊などが理由でクビにされたくはない。
 昨夜の記憶を目まぐるしい勢いで甦らせ、確か早朝、漁に出た後は近くの競り市場で獲った魚を競りに出すのだと網元が言っていたのを思い出す。丁度、七十ほどの小柄な老婆が通り掛かったので、呼び止めて競り市場の場所を訊ねた。
 ここからさほど遠くはなく、他所者にも解り易い場所だったので、幸いにもすぐに辿り着いた。
 コンクリートの上に各々の漁師が今日の戦利品を並べひろげている。目当てを競り落とそうとする男たちの野太い声が市場に次々と響き渡っていた。海の男たちの活気と熱気が満ち溢れるその場は、男の悠理の眼にも眩しく映じた。働く―海で生き、時には生命すらも賭して漁に出る男の気概とでも言えば良いのだろうか。自らの仕事に誇りと情熱をひたすら傾ける男たちの姿が尊いもののように見えたのだ。
 彼らはけして女が好むような美男でもないし、ましてや優雅などという形容とはおよそかけ離れている。しかし、真摯に生きる男の表情は実に生き生きとして魅力的だ。それはホストを辞めて、掛け持ちのバイトをしていた自分にはけして得られなかったものだ。
 既に競りは殆ど終わりに近づいていたらしく、三十分を経ない中に終了した。網元が荷を広げている場所から少し離れて佇み、悠理はなりゆきを見守っていた。
 競りが終わり、悠理は網元に近づいた。
「お前の覚悟とやらは所詮、その程度のものか?」
 網元は悠理の方を見もせずに、ぶっきらぼうに言い放った。
「済みません。ここのところ眠れなくて、つい寝過ごしてしまいました」
 悠理は懸命に頭を下げ続けた。ここは自分が一方的に悪いのだから、謝るしかすべはない。
「言い訳なぞ、くどくど言わんでも良い。お前という人間がどんなヤツかはよく判ったから、さっさと荷物を纏めて出ていけ」
「網元! お願いです、もう一度だけチャンスを下さい」
 悠理はその場に正座した。きちんと膝を揃えると、頭がつきそうなほど深々と垂れる。
「止めんか。そんな真似をされても、わしの気持ちは変わらんぞ」
 網元は更に分厚い唇をぐっとへの字に曲げた。意思の強そうな、いかにも一徹げな気性が如実に口許に表れている。
「いいえ、止めません。俺、生まれ変わりたいんです。何もかも棄てて、もう一度やり直せるのなら、何でもしようと思ってます。だから! お願いですから、もう一度、チャンスを下さいませんか」
 網元を真下から見上げる、悠理は頭を下げ続けた。
 短い沈黙があった。網元が口を開きかけ、顎に手を当てた。何事か思案しているように見える。まるで小学生の頃、出来を心配していた算数のテストの返却を待っているような気分だ。
 やがて、低い声が静寂(しじま)を破った。
「今日、使った網を全部、綺麗にして干しとけ。普段は他の若い者たちがやる仕事だが、今日はお前が一人でやるんだ。やり方は昨日、見ているはずだから、判るな?」
「判りました。ありがとうございます」
 悠理は弾んだ声で言い、深々と頭を下げる。
「止めろと言ってるだろうが。そんなことをされては、わしが困る」
 現に、周囲の漁師たちが興味津々といった顔で悠理と網元を眺めている。
「済みませんッ」
 悠理は怒鳴り声のような大きな声で返し、またぺこりと頭を下げた。
 網元の憮然とした顔に、一瞬だけ苦笑がよぎったような気がしたのは気のせいだろうか。
「今度、同じヘマをしたら、許さんからな、二度目はないと思え」
 網元は相変わらず悠理の方を見ないで、そっぽを向いている。
「はいっ」
 悠理は一礼すると、勢いよく引き返した。
 競り市場を出ようとしたまさにそのときである。
 向こうから狭い道を若い女が歩いてきた。二十代後半といったところか。色の白い、細面の容貌は美人といって遜色はないけれど、どこか淋しげな印象を与える。
 女は悠理には気を払うこともなく、通り過ぎていった。ふと気になって振り向くと、彼女は市場に入り、真っすぐ網元に向かっている。
 網元の家族なのか? そう考えた途端、何故か胸が轟いた。
「いやあね、お父さんったら」
 儚げな外見に似合わず、華やかな笑い声が響き渡り、悠理はその場に釘付けになった。思わず女の方を見つめてしまう。一瞬、視線と視線が空間で交わった。
 女もまた息を呑んで、悠理を見つめていた。
 二人に気づいたのかどうか、網元が小さな咳払いをし、悠理は慌てて我に返った。
 耳許まで紅くなりながら、彼は慌ててその場を離れた。ホスト時代は数え切れないほどの女たちと次々と関係を持った。金のためであれば、相手になど関わりなく、女を抱いた。
 そんな自分がまるで小学生のように見も知らぬ女と眼を合わせただけで、頬を上気させてしまうとは。
 うつむき加減にゆっくりと歩く悠理の側を、誰かが通り過ぎてゆく。
 思わず弾かれたように面を上げると、先刻の女が彼を追い越してゆくところだった。
「待って」
 声をかけたのは衝動的な行為だといって良かった。自分でもそんなつもりはなかったのだ。初日から漁に出ず、寝坊して雇い主の怒りを買ったばかりの身だ。女は網元を〝お父さん〟と呼んでいたから、娘なのだろう。この大切なときに、網元の娘に声をかけたりしようものなら、それこそ、どのような誤解を受けるか知れたものではない。今度こそ、ここを叩き出されるに違いない。
 だが、声をかけずにはいられなかった。何故なのか、自分の中の何かかが彼女に強い力で惹きつけられているのが判った。
「え―」
 女が訝しげに振り向いた。それもそうだろう、初対面の男に呼び止められる理由もないのだから。
 女は困惑した面持ちで悠理を見ている。
 大きな黒い瞳。腰まで届くサラサラとした髪は邪魔にならないように横で一つに結ばれ、控えめなシフォンのシュシュが飾っている。殆どノーメークといっても良いほどの薄化粧だが、元々、整った顔立ちなので違和感はない。
 クリームイエローのTシャツとジーンズに包まれた身体はほっそりとしているが、歳相応の成熟した豊満さを持っているであろうことは服の上からでも判った。
 あまり自慢にもならないが、多くの女性を見、関係を持ってきたからこそ、悠理は女性に関しては、ある程度の審美眼―見極められる眼を持っている。
「何か?」
 女はあからさまに警戒するように彼を見つめてきた。
「いや、何でもありません。済まない」
 悠理は小さく頭を下げた。その傍らを女が足早に通り過ぎていく。その瞬間、えもいわれぬ香りが悠理を包み込んだ。爽やかでいながら、どこか官能的な甘さを含んだ花の香り。
 不思議なことに、浜ゆうの匂いなど知らないのに、この魅惑的な香りがあの純白の花から放たれるものと同じだと本能的に感じていた。
 海風に混じったその花の香りは、なかなか消えなかった。潮気の強い風に混じっても、少しも損なわれることなく、むしろより際立って香る―妖しい香りである。まさに、海で生まれた女神が身に纏うにふわさしい。
 悠理はいつしか惚けたようにその場に立ち尽くしていた。
 再び現実に立ち帰った時、悠理は己れの愚かさを呪った。
 俺は何を考えてるんだ?