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海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】

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 彼は怖かった。自分がいつか実里や子どもに逢いたいという欲求に抗えなくなり、ふらっと彼女たちの前に姿を見せてしまうのではないかと怯えていた。
 ここではないどこかへ、自分を知らない人たちの住む遠い町へ行けたなら。心で実里たちに別離を告げたあの日から、その想いは常に彼に纏いついていた。そして、今日の早朝、気がついたら、ナップサックに数日分の着替えと有り金を突っ込んでバスに乗っていた。
 行き先も決まってはいない、あてどのない旅。それは、まさに現実からの逃避に他ならない。
 それでも良かった。ほんのわずかな間だけでも、実里や我が子への想い―執着から眼を背けていられるなら、彼はどこへなりと行くつもりだった。執着してはならない、自分は未練を抱く資格すらないのだと思うのに、理性では納得できても、感情が制御できない。
 理性で辛うじて抑え込んでいる感情はいつも不穏に暴れ出そうとしている。
 風の噂で、実里は片岡柊路(しゅうじ)と結婚したと聞いた。柊路は悠理の無二の親友であった。かつて悠理も柊路もF町では結構名の知られたホストクラブの人気ホストだったのだ。悠理に実里の妊娠を告げたときに宣言したとおり、柊路はあれからホストを辞め、自動車整備士の資格を取るべく整備工場で働きながら勉強中だという。
 早妃の墓前で産気づいて意識を失った時、実里はうわごとで柊路の名前を呼んでいた。柊路も実里に惚れていると公言してはばからなかったから、あの二人が結ばれるのはごく自然なことに思えた。二人とも上に何とかがつくほどお人好しで、律儀で優しい。悠理が見ても、お似合いのカップルだ。
 柊路は毎夜、実里の身体を欲しいままにし、悠理のたった一人の子どもの父親として腕に抱いている。同じ男なのに、どうして自分には望む女も我が子さえも手に入らないのだと理不尽に思う傍ら、暴れる実里を押さえつけ陵辱の限りを尽くした自分には、その願いを口にすることすら許されないのだとは判っていた。
 それでも、運命も神さまもあまりに理不尽だと思わずにはいられなかった。逢いたい、実里に、我が子に。感情と理性の間で心は烈しく揺れ動き、心と身体が真っ二つに引き裂かれそうで苦しかった。
 また、いつもの果てのない物想いに引き込まれそうになり、悠理は慌てて首を振った。小さな吐息をつき、改めて視線を動かすと、いつしか道は狭くなっている。バスが通る大きな道を海沿いにひたすら歩いていたはずなのに、その道は今、二方向に分かれようとしていた。
 少し躊躇った後、ええいままよと右方向に脚を向ける。道は更に狭まり、少しいった先では、老人がコンクリートの低い防波堤に網をひろげて掛けている作業の真っ最中である。
 海の眺めは大通りを歩いていたときとさほど変わらなかったが、更に近くなったという感はあった。現実として、真っ青な海が手を伸ばせばすぐの場所にまで迫っている。低い防波堤の向こうはもう海で、潮を濃く含んだ海風が一瞬、悠理の鼻腔を突いた。
 悠理は何も言わずに、ただ黙って老人の仕事を眺めていた。元々、彼は饒舌な質ではない。どちらかといえば、普段の彼は取っつきにくいと他人からは評されることが多かった。
 もっとも、現役ホスト時代は意識して、素の自分を外に出さないようにはしていたけれど。いつも笑顔を仮面のように貼り付けて、心にもない口説き文句を口に乗せ、虚飾と欺瞞に満ちた世界で生きていた。必要とあれば、自分の母親ほどの女性客と濃厚なキスもしたし、肉体関係を持つこともあった。もちろん、愛だ恋だのという感情などとはおよそ無関係の、仕事ゆえと割り切っての関係にすぎない。
 悠理が素顔を見せるのは、妻である早妃の前でだけだ。
―悠理クン。
 早妃の少しだけ舌足らずな口調が無性に懐かしくて堪らない。
 実里の面影から逃れるために故郷を飛び出してきたら、今度は早妃の顔が眼の前にちらついて消えない。
 俺もつくづく女々しい男だな。
 悠理の整った面に苦笑いが浮かぶ。
 老人は相変わらず黙々と網をひろげる作業に集中している。まるで宝物を扱うような慎重な手つきだが、それも当然だ。漁師にとって網は大切な商売道具の一つなのだ。
 この年老いた男が漁師であることはすぐに知れた。既に六十は超えているであろうと思えたものの、陽に灼けた横顔は精悍で、身体も全体的に引き締まっている。ジムなどで贅沢に鍛えた人工的肉体ではなく、日々の営みや仕事の中で自然に作り上げらられていった逞しさがあった。
 どれくらいの間、そうやっていただろうか。時間にしてはたいして長くはなかったはずだが、気がつけば、老人が振り返って彼を見つめていた。
「そんなに珍しいか?」
 長年、潮や風雪に晒されてきた面には、くっきりと皺が刻み込まれている。赤銅色に灼けた貌は存外に整っており、細い瞳は物事の真実を暴き立てるかのように鋭かった。
 そのまま老人と対峙していると、弱い自分の心を見透かされそうな恐怖に陥りそうだ。
「い、いえ」
 悠理は柄にもなく紅くなり、首を振った。
「仕事中、お邪魔をして申し訳ありせんでした」
 早口で言うだけ言って去ろうとすると、背後から嗄れた声が追いかけてくる。
「待ちなさい」
 えっと、振り向く。
 老人の細い眼が更に細められていた。だが、その瞳は怖いというよりは、彼自身が何かを訝しがっているようにも見える。
「ここで働いてみるか?」
 最初、悠理は老人から発せられた言葉の意味を理解できず、惚けたように相手を見返していた。
「俺が? ここで働く―」
 かつてホストをしていた頃、悠理の謎めいた微笑は女性たちを虜にし、〝キラー・スマイル〟と呼ばれた。今でも突然に店を辞めて姿を消したナンバーワンホストの彼は、伝説のホストとして噂の的になっているらしい。
 悠理自身はそんなことはどうでも良かったけれど、確かにホストという前職と漁師はあまりにも違いすぎる―というか、同じ次元で語れる仕事ではない。
 父親が突然死んで、高校を中退して以来、まともに力仕事すらしたことのない自分が漁師などできるのだろうか? 疑問が波のように押し寄せてきたものの、何故だか、悠理にはこの老人からのいざないが天啓のように思えた。
 今、自分が直面しているこの際限もない苦しみから解き放ってくれるのであれば、何でも構わない。そんな半ば自棄のような気持ちもあるにはあった。
 老人には申し訳なかったけれど、別に漁師の仕事に魅力や興味を憶えたわけではなかった。
 老人はしばらく悠理をじいっと見つめ、それから頷いた。
「無理にはとは言わんが、この町の漁家も今は、若い者が次々と都会に出てしまって、人手不足でな。お前のような若い男なぞ、皆、町を出たっきりで、ついぞ帰ってこん。まあ、バイト代くらいしか出せないが、手伝ってくれるのなら、宿代はただにしてやっても良いぞ」
 老人は悠理と眼が合うと、ニヤリと笑った。
 ちょっと見は無愛想に見えるが、話し好きなのかもしれない。
「俺なんかで務まりますか? はっきり言って、漁師の仕事って全然、見当もつかないんですけど」
 思ったままを言うのに、老人は愉快そうに声を上げて笑った。