海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】
浜ユリ
花言葉―ここではないどこかへ、遠くへ
汚れを知らない
インカローズ
宝石言葉―過去を浄化し、未来の幸せを招く。
♣ここではないどこかへ♣
突如として視界がサファイアブルー一色に染まり、悠理は眼を細めた。海面を真っすぐに照らし出す夏の陽射しは眩しく、海は鏡面のように煌めいている。その眩しさに一瞬、眼を射貫かれ、悠理は眼を閉じる。ひと刹那の後、濃い影を落とす長い睫を震わせ、彼はゆっくりと眼を開いた。
思わず食い入るように車窓越しの風景に魅入る。それは例えていうならば、既視感(デジヤブ)とでも呼びたくなるような不思議な感覚であった。懐かしさと郷愁が複雑に入り混じったような。長い間、自分はこの場所を求めて彷徨(さまよ)っていたのではとでも思いたくなる気持ちだ。
だがと、悠理はかすかに首を振る。そんなことがあり得ようはずがない。現実として悠理が生まれたのは別の町で、この風景は一度として眼にしたことがないものなのだ。きっと、今の自分は感傷的になりすぎているのだろう。彼は自分に言い聞かせた。
「次は切(きり)別(わけ)、切別。お降りの方はお急ぎ下さい~」
車内アナウンスが流れ、悠理は慌てて傍らのナップサックを担いだ。
バスが停留所で停まった。
「済みません、降ります」
悠理は大声で叫び、ナップサックを担いだままの格好で小銭を料金箱に落とし、バスを降りた。
「あんた、今の時期に切別に来たのは海ほたるを見にきたんかいな」
白髪交じりの中年の運転手が気さくに話しかけてくる。
「海ほたる?」
悠理は眼をわずかにまたたかせ、わずかに目尻に皺を刻む運転手の細い眼を見つめ返した。
「これからの時期は、ここは海ほたるが見えますからね。小さな町だけど、結構、全国から観光客が集まってくるんですわ」
「そう―なんですか」
運転手はいかにも人の好さそうな四十年配の男だ。生きていれば悠理の父親ほどであろう年齢の運転手は、まるで十年も昔からの知り合いのように悠理に話しかけた。
「それは楽しみです。折角なので、海ほたるをじっくりと見てきますね」
悠理もまた愛想よく応えた。砂埃を上げて走り去るバスは全体にオレンジ色で中央に蒼いラインが入っている。かなり年代物のようで、車体は所々、塗装が剝げかかっていた。
バスが完全に視界から消えるのを確認してから、悠理はナップサックを担いで歩き出す。
―何で、この町がこんなに気になるんだ?
悠理は周囲の風景を見回しながら、ゆっくりと歩く。その間にも、彼の脳裏を占めるのはたった一つの疑問だけだった。
自分の生まれ育ったF町からバスで数時間のところにあるこの小さな港町が何故、自分をこんなにも惹きつけるのか? 訪れたこともなく、名前すら滅多に聞いたことのない町なのに。
いやと、彼は小さく首を振る。俺は多分、ここに来たかったわけじゃない。俺はどこかに逃げ出したかったんだ。ここではないどこかから、俺を取り巻くすべてのものから離れたかっただけなんだろう。だから、生まれた町を棄てて、これまでの自分をすべて忘れるつもりで長い旅に出たのだ。
選んだ道を後悔するつもりはない。誰にとっても、こうするのがいちばん良かったのだ。我が子であっても、けして我が子とは呼べない子。恐らくこれからの生涯、その我が子をこの腕に抱くことも、その子が自分を父と呼ぶこともないだろう。
何故なら、彼は許されない罪を犯してしまったから。今でも彼は自分を理解できない。最愛の妻を失った哀しみのどん底にいたとはいえ、よくぞあそこまで酷いことができたものだ。自分より弱い女を押さえつけ、これ以上はないという残酷なやり方で辱め、抱いた。
今でも、のしかかったときに真上から見た女の泣き顔や怯えた瞳が瞼に灼きついて離れない。その一方、束の間、抱いた女の身体のやわらかさや普段の女の澄んだまなざしを懐かしいとすら思う。
そう、自分はいつしか彼女を愛していた。彼女を抱いたのは〝復讐〟という名の下であったことは確かだけれど、彼は女の優しい心やきちんとした人柄を知る中に、自分でも知らない中に惹かれていっていたのだ。
結局、復讐するつもりで近づいた女に惚れ、あまつさえ、レイプした女は彼の子どもを身籠もった。最も残酷な現実を突きつけられたのは、むしろ悠理自身であったろう。折角得た我が子は我が子と呼べず、抱くことすら許されない。
入倉実里(みのり)と悠理はまさに数奇な縁(えにし)で結ばれていた。悠理の妻であった早妃を実里が車で撥ね、早妃は死んだ。当時、早妃は妊娠七ヶ月であった。もとより実里に非はなく、早妃の方が路上にふらふらと彷徨い出て、実里は急ブレーキを踏んだのに間に合わなかった。実里はすぐに救急車を呼び、同乗して病院まで付き添い可能な限りの誠意を尽くした。
それでも、悠理は実里を許さず、彼女にストーカー紛いに付きまとった挙げ句、会社から帰宅途上の彼女を襲い、レイプした。その結果、実里は妊娠したのだ。
すべてが偶然にすぎなかったように思えるが、実は最初から運命づけられていたのではないか。この頃、悠理はそんなことを考えるようになった。早妃も実里も自分も、出逢うべくして出逢い、別れるべくして別れたのだろう。
早妃の墓参りに来ていた実里は、その場で産気づいた。その場に悠理が居合わせたのもまた、ただの偶然であったとは思えない。産気づいた実里を悠理は近くの病院まで運び、夜通し出産に付き添った。
今から思えば、それもまた天の配剤、いや、我が子に生涯父の名乗りはできない彼を天の神が憐れんで下さったのかもしれない。だから、ほんの一瞬、我が子を腕に抱くことを許して貰えたのだろう。
あの日、悠理は実里の無事な出産を見届け、我が子を腕に抱いた。その後でそっと病院を出て、二度と実里にも我が子にも逢わぬ覚悟で背を向けたのだ。
あれから七ヶ月が経った。子どもも随分と大きくなっているに違いない。我が子の顔を見たのはほんのわずかの時間にすぎなかったけれど、彼は一日として、あの幸福なひとときを忘れたことはなかった。腕に抱いたときの壊れそうなほどの脆さ、小ささ。
しかしながら、しっかりと握りしめた可愛らしい拳に自分の指を差しいれた時、存外に強く握り返してきたときの赤児の生命力。そのすべてが忘れがたい記憶となって、いまだに悠理を幸せな気分にもするし、これ以上はないというほどに苛む。
叶うならば、今すぐにでも飛んでいって、我が子をこの腕に力一杯抱きしめたい。自分のたった一人の子を産んでくれた実里と子どもと親子三人で新しい家族を作りたい。
だが、それは永遠に叶わぬ夢であった。レイプされた女とレイプした加害者。更に亡くなった早妃を間に、二人はいまだに妻を轢き殺された男であり、不幸にも事故を起こした加害者でもあった。
それはたとえ悠理には忘れることができたしても、実里には耐えられないことだろう。
結局、悠理は逃げ出したのだ。大切な愛しい者たちの住む同じ町にいることに耐えられず、苦しみのあまり逃げてきた。
作品名:海ほたる~どこか遠くへ~【My Godness完結編】 作家名:東 めぐみ