挽歌 「こわれはじめ」
「うわっ!」
大きな胸板にぶつかり、あわてて目の前を向くと、そこには大柄なスーツの男が居た。
「すみません、前を見ていなくて……」
「ああ、大丈夫。そっちこそ、怪我はないかい?」
「大丈夫です……あれ? どこかで見かけませんでした?」
華憐が不思議そうな眼で男を見つめる。
それもそのはず、今しがた華憐とぶつかった男はまぎれもなく、昨日事務所へ依頼を師に来た「小杉」という男だったのだから。
「ん……ああ、昨日事務所から出てきた娘か。彼らの身内なのかな?」
「おじいちゃんがあの事務所に勤めてるんです」
「そうなのか……」
「あなたは、どこへ?」
「今日は仕事がオフなので……夕飯の買い物をしに、出てきた所なんです」
「家事、おじさん一人で?」
「お、おじ……ああ、そうだね。高校生の一人娘がいるんだけど、あの子は亡くなった妻に似て、料理が上手くないんだ」
「ふーん……うちのお父さんも、お母さんがちっとも上手くならないから頑張ってるんだ。なんだか、おじさんとそっくりですね」
「はは……じゃあ、私はこれで。お爺さんによろしくと言っておいてくれるかな?」
「はーい、ありがとうございました」
「あれ、煙草吸わないの?」
「そんな気分になれん日もある。いいからさっさと俺にソルティライチをよこせ」
「えーっ、これ僕のですよお」
「煙草買って来いと言ったのは俺だ。だが、ソルティライチ箱買いなんて許可した覚えはない」
「大介、細かいことはいいだろう。ほら華憐、大介に意地悪をするのはやめなさい」
「はーいっ」
「けっ」
華憐から手渡されたソルティライチを口に含み、机の横に放置してあるノートパソコンを無造作に開く。
慣れた手つきでキーボードを叩き、ひとしきりパソコンのモニターと格闘する大介。
それを真横で、子供のような目でじっと華憐が見つめている。
「……帳簿のチェックだぞ、面白くもなんともないぞ」
「将来のお勉強です」
「はっはっは、一本取られたな」
「取られてねえよ」
しかめっ面でキーボードを叩く大介。
そこへ――
じりりん、と受話器の音が鳴り響く。
「はい、なんでも屋だが……なに?」
受話器を持つ大介の手が、微かに震えた。
「小杉さんが……何者かに襲われた?」
依頼人が襲われたとの連絡を受け、三人はすぐさま入院先である熱田化病院へと足を運んだ。
「小杉さん!」
「ど、どうも……面目ない」
頭には包帯が巻かれ、左足はギプスによってがんじがらめにされている。
誰がどう見ても、故意にやられたとしか思えない傷だらけであった。
「死ぬほどの怪我ではないみだいたな」
「あれ……あなた、隣のクラスの……」
華憐は、小杉の横たわるベッドの横で座っている一人の娘に注目する。
「あっ、華憐先輩!」
「同じ学校かい? 華憐」
「うん、僕と同じバンド部所属なんですよ」
「せんぱぁい……私、どうしたらいいんですか……」
「あ、えっと、その……」
後輩の予想外の行動にたじろぐ華憐。
それを見て、大介は小杉の方へと歩く。
「小杉さん、あんた誰に襲われたんだい」
「顔は解らなかった。だが、少なくとも素人ではない」
曲がりなりにもそう言った職業故、観察眼には優れていたようだ。
その他にも、いくつか小杉から聞き出した大介は――
「わかった、小杉さん。くれぐれも身体には気を付けてくれ」
「ああ、心配してくれてありがとう。真理恵、一人で帰れるか?」
「いや、そこの大介に家まで送らせるよ。華憐、あとは大介に任せよう」
「はぁい」
夜道を歩く、三十代の男と女子高生。
「あの、大介さんって言いましたよね」
「ん? ああ、俺は大介だ」
「一体、父とどんな依頼を?」
「それは俺と小杉さん同士の秘密って奴だ。答えるわけにはいかんね」
「……父は、いつも優しくて。それが、なんであんなことに……」
震える真理恵の肩を、大介の右手がぽんと押す。
「あんた、小杉さんのことを信頼してるんだな」
「……母が亡くなってもう十年になります。父は、男手ひとつで私をここまで育ててくれた……だから、私にとって父は……最高のお父さんです」
真理恵の方を向き、思い出したかのように懐から大介は何かを取り出す。
「これは?」
「小杉さんの会社が経営してる工場で作った、ネームプレートだ。俺が飼っている犬の名前が彫られているだろう?」
「は、はい」
「ま、そいつは俺が片手間で作ったもんだけどな。こんなど素人の俺でも、それくらい見栄えのいいもんを作るだけの技術力があるんだ。あの工場は最高だ」
月の光に照らされたネームプレートが、きらりと光る。
「さて、家はどのあたりかな」
「この先を曲がったら、すぐで……」
何者かの気配。
それを察知した大介は、真理恵を背後に置く。
「大介さん?」
「出てきなよ、獲物は逃げないぜ」
大介の言葉に反応したのか、先日の連中と同じような格好の男たちが現れる。
「その娘を渡してもらう」
「やだねぇ、人質ってやつか?」
「断るなら貴様を殺して。その娘を頂く」
男たちは懐に手をかける。
「悪いな真理恵ちゃん、ちょっとだけ寝ててくれ」
背後に居た真理恵に、素早く当て身を打つ。
「あっ……」
程なくして真理恵は昏倒し、その場に倒れる。
「人質を眠らせてくれるとは、なかなかいいことを」
「そうかい? 俺はお前らが死ぬ所を見せたくないから寝かしただけさ」
「なに!」
懐から銃を引き抜き、大介に向けて構える。
だが、大介はまるで動じることなく笑う。
「拳銃ってのはデリケートなもの。ましてや、あんたらみたいな素人が簡単に扱えるようなもんじゃないんだぜ」
「な、なめやがって」
「じゃあ、あんたの銃を良く見てみろよ」
「何?」
「安全装置、かかったままだぜ」
「えっ!」
「馬鹿」
男の頭が吹き飛ぶ。
音もなく倒れた同僚を見て、周りに居た連中は腰が引けてしまう・
「ひ、ひい!」
サプレッサー、いわゆる静音機の付いた拳銃による攻撃は、銃の弾丸などにも左右されるが――概ね、射撃の際の爆音を抑えてくれる。
「女一人さらって人質に使うってのは冴えてるが、一つだけ誤算がある」
「な、なんだと」
「俺様が居ること、それがすでにお前らの誤算であり――不運だよ」
銃の機構音のみが、周りに響く。
数十秒もしないうちに、男たちの頭は吹き飛ばされていた。
気絶している真理恵を抱きかかえ、家の方へと歩いていく。
「さて、あとは爺の方か。奴のことだ、上手くやってくれているだろうけどな」
夜が静寂を支配する、午前一時。
深夜の病院に、足音が響く。
病院の四階、小杉が眠っている病室の前に一人の男が立っていた。
手袋を嵌め、右手にはナイフを握る怪しげな男。
静かにドアが開き、病室の中が開示される。
そこには、病院用のベッドの上で安らかな寝息を立てて眠る小杉の姿があった。
小杉の右腕に刺さっている点滴用の針を通し、ぽたぽたと点滴が流れ込んでいるのを見た男は、鞄から点滴用の袋を取り出す。
「そいつでこの男を毒殺しようとでもするのか?」
不意に背後から聞こえた声に驚き、男は持っていた点滴を落とす。
「!」
作品名:挽歌 「こわれはじめ」 作家名:志栗 悠