ひとつだけやりのこしたこと
無題 2011年05月10日 12時38分
「所与を所与として」
注1:高校の国語教師から教わったことのひとつ。「所与を所与として」。
所与とは、「与えられたこと」。
だから、この言葉の意味は「現実を見据えろ、そこから出発しろ、どんなに不満だろうと。」ということだろうか。ともあれ、高校生のわたしはそんな意味に受け取り、以後、わたしの座右の銘のひとつになった。
注2:このところ、わたしはうつの症状が再発して毎日夕方6時頃になると死にたくなっていた。
【さとみへのメール 2011年5月8日 21:02】
あのねあのね
今日夕方6時頃、「ああ、また夕方だ、またいやな気分になるのかな。」って思って、そうだ、今日はもう終わりにしてお風呂に入って、あとで買い物にでも行こう、って、お風呂のあとオムレツと豆ご飯とリーフレタスのサラダで夕ご飯を食べて、ナフコでブルのえさ、ブルの缶詰、ブルのビーフジャーキーを買って、エレナでケチャップとか、ちょっとぜいたくして梅酒とかを買って、ちょうどパン屋が何でも100円になったからチーズパンとか、明日の朝ご飯を買って、そして考えていたの。
落ち込んだって、さとみは戻らない。
落ち込んだって、何にも得にならない。
そのうち、胃を壊すかも知れないし、さとみだってわたしが落ち込んでいたら、おちおちケンちゃんとキスもできない。よくないことばっかり。
さとみに「所与を所与として」って教えたことを想い出したの。
いま、わたしがいる場所。
さとみは、もう、いない。わたしは一人ぼっち。
経済は、苦しい。
でも、どれも、嘆いていたって仕方ないの。そこにわたしがいる以上、そこがわたしの出発点なの。
うん、いま、どん底。つまり、これからはあがる一方。
そんなふうに考えていたの。そしたら、今日は、気がついたら、むなしい無力感にとらわれなかった。どちらかといえば明るい気分。
やっと、さとみに振られたことを心が受け入れはじめたんだ。抵抗するのをやめて。「受容段階」ってやつ?
全部、そのまま、認めよう。
さとみは戻らない。わたしは胸に穴が開いている。
それも、そのまま、認めよう。
そこから、どこかに、歩こう。
ねえ、さとみ、なんだか、そのことを早くさとみに伝えたくてメールしました。
だって、ずいぶん久しぶりなの。心に砂利でも入っているんじゃないかと思うぐらい重かったのにふつうぐらいになったの。
ねえ、さとみ、喜んで。
いま、揚げピーナッツをつまみに梅酒飲みながら書いているの。おいしい。
返信はいらないけど、もし、返信してくれたら、わたしの心はもっと明るくなります。
メールじゃなく、電話だったら、ちょーうきうきになります。
作品名:ひとつだけやりのこしたこと 作家名:つだみつぐ