ひとつだけやりのこしたこと
無題 2011年05月06日 12時59分
(それは疑いようもなく、わたしの人生最良の日々だった)
一緒に手をつないで海を見たね
かもめが低く飛ぶのを見たね
トンビが輪を描くのを見たね
「見て、あんなに波がきらきらしている。」
その時わたしは生まれて初めて海を見た気がした
一緒にキュウリを植えたね
揚げひばりの声が聞こえたね
レタスの苗に水をやったね
「見て、苗がこんなに喜んでいる。」
あのときからわたしも少し苗の声が聞こえるようになった
満開の桜を見たね
映画を見たね
花火大会に行ったね
寄り添って手をつないで歓声を上げて
大きなカップのかき氷を分け合って
「なんだか、一緒にいると、氷の味まで、ぜんぜん違うね。」
いくつも展望台にのぼったね
あなたは「きれい」と言って海と空がまじわるところを見つめて
わたしは後ろからあなたを抱きしめたね
雨に降られた時はひとつの傘にくっついて入ったね
冷たい風の日にはわたしの腕にからだをからませたね
わたしの作るどんな料理でも
ひとつ残らず「すごくおいしい」って
こぼれるような笑みを浮かべたね
洗うのはあなたがしたね
「このお皿は、どこ?」って聞いたね
何時間も愛し合ったね
「わたしたち、鍵と鍵穴みたいにぴったりだね。」って言ったね
肌を重ねるごとにそのたび悦びは深まったね
わたしの知らなかった深みにまで
「どうしよう、これ、やみつきになっちゃうよ。」って言ったね
「いいよ。だって、一緒に暮らしたらわたしたち、死ぬまで毎日するんだよ。」
「ほんとうに死ぬまで毎日しようね。約束だよ。」
裸で抱き合ったまま眠ったね
お風呂で洗いっこをしたね
あなたはわたしの顔を
ゆっくりていねいにやさしく洗ってくれて
そのたびなぜだかわたしは
そのまま眠ってしまいそうになったね
さとみ
電話の時はけんかをしたり気持ちがすれ違ったりしたけど
一緒にいる時は不思議と一度もなかったね
わたしたちしあわせにおぼれていたね
そうしてわたしは永遠に続くと信じていた
もう二度と悲しいことはなにもないと思っていた
ただひとつわたしがあなたを毎日愛し続ければ
ぜんぶぜんぶ
想い出の中だけになったね
二度と決して味わえない
あなたは新しい恋の中で忘れていったとしても
わたしは
わたしの人生のいちばんあたたかな時間を
しあわせという言葉の意味を初めて知った日々を
きっと死ぬまで想い出し続けて生きていくよ
だってそれは確かにあったのだから
作品名:ひとつだけやりのこしたこと 作家名:つだみつぐ