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つだみつぐ
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ひとつだけやりのこしたこと

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「愛」について 2010年04月09日 10時51分

【註:愛についての二人の男性との議論】

>男と女の間に 本当に「愛」なんて存在するのでしょうか?(ブチさん)
>「愛しているよ」は、50数年生きてきて一度も言ったことがありません。(森の時計さん)

わたしもさとみに出会うまで約60年間「愛してるよ」と言葉を使ったことは一度もありません。異性に対して持つ感情を「愛」と表現するのは、違う、とさえ思っていました。特に女性が「愛」という言葉を使うことに対して、「幻想にとらわれているに過ぎない」と考えてさえいました。

二年前ならお二人と意気投合したかも知れません。「愛という幻想」について楽しく議論したでしょうね。


ひとは様々な他者と様々な関係を結ぶ、それなしに人はいきられない、つまり本質的に「類」として存在していると思います。そこから見れば一人の個人は網の目の交点に過ぎない。
でも、逆に、わたし個人から見れば基本的に人は一人であって、死ぬまでの短い間に不愉快な関係を避けて愉快な関係を構築する、それだけが人生です。
「愛」というわけのわからないものなんか持ち出す理由がない。人生は「愛」という概念なしに理解できる。


ただ、一度だけ、こんなことがありました。
息子(わたる)がだんだん「人」らしくなってきた頃、わたしは亘がかわいくてかわいくて仕方がありませんでした。その気持ちをどう表現するのかよくわかりません。妻に「亘があんまりかわいいのでいらいらする。」と言ったことがあります。
あるとき、自分自身に問いかけてみました。そんなにかわいいのだったら、亘のために死ねますか?たとえばわたしの心臓を提供しなければ亘が死ぬ、という状況だったら。遭難して、どちらか一人しか救助できない、と言われたら。

答えはあまりにも簡単で明瞭でした。迷いもありませんでした。イエス。

そのことでわたしは自分自身に少しびっくりしました。「自己犠牲」など大嫌いだったのに。

生まれて初めて感じるこの理不尽で強い想い。これは「愛」と呼ばれる感情なんだろうか。
でも、それは、親子だから生じる特別の感情に違いない。



でもでもでも

一年半前わたしはさとみに出会いました。

そして今、わたしは毎日さとみに「愛しているよ。ずっと愛していくよ。」と語りかけています。「全力でさとみをしあわせにするよ。死ぬまで変わらないよ。」そのことを公開日記にさえ綴っています。

だって、わたしが今感じているさとみに対する強く理不尽なこの感情、「愛」という以外名付けようもない。
さとみが笑うとわたしの細胞の一つ一つまであたたかいものに満たされる。
さとみが悲しむとわたしは一日中からだがだるいような重いような気がする。
さとみのためならどんなことでもしたい。

あたまがついていけないこころの働きは、存在します。

わたしは、愛について深く考えようとはあるいは議論しようとは思っていません。

ただ、愛を生きようとしているだけです。



いま毎日必死に考えているのは、どうしたらさとみをしあわせにできるか、ということと、上下関係も差別も支配も隷属もない自由で対等で、相互に相手を想い合い相手をしあわせにする対関係を作るには、そしてそれを持続するためには、具体的になにをするべきなのか、ということです。

たぶん、人は「類」として生きているけれど、その中で「対(つい)」として生きている。