嵯峨野の女
僕はそっとドアを開けて外に出た。外界はどんより曇った薄明のなか、駐車場もアパートも竹藪も一面の銀世界であった。雪は止んでいた。風も無かった。僕は足跡を残さぬよう、用心しながら立ち去った。雪を被った竹藪が幽霊のように無数の白い手を垂れていた。
その日から悩ましい懊悩(おうのう)の日々が始まった。
僕の女性体験は彼女が始めてではなかった。住み込んだ新聞販売店の歓迎会で、先輩に風俗店に連れて行かれ筆おろしを済ませていた。僕の初体験の相手は年増の商売女で、酔ってマグロ状態の僕を慰めてくれた。僕の内部に燃えるものが無く、女の裸身も商売用の鎧(よろい)をまとっているようで、局所の刺激で機械的に射精しただけであった。
そこには愛し合う男女の絶対的な合一感、全的な絶頂感が無かった。正直、僕は大会の競泳の方が、全身的な昂揚感と言い、解放感と言い、はるかに全的な陶酔があると感じた。
しかし、彼女との体験には競泳を越える全的な絶頂感があった。求め合う男女の絶対的な合一感があった。少なくとも僕はそう感じた。それは初めての目くるめく体験であった。
独りになると、女との交わりが生々しくフラッシュバックした。
音をたてて迸る(ほとばしる)シャワー、湯気で曇った風呂場、ピンクに染まった裸身、のけぞり、しがみつき、喘ぐ女の、喜悦のような苦悶のような表情・・脳裏に刻まれた女の姿態は余りにも鮮烈であった。
身体が火照り、股間が猛り(たけり)、妄想に悩まされた。進級のかかった大事な後期試験に集中できなかった。バイトをぎっしり入れた。マラソンに挑戦した。修行僧のように水をかぶった。クタクタになるまで自分を虐めた。
懊悩する僕に女と連絡する術がなかった。ジャズバーの電話は教えて貰ったが、女の電話は知らされなかった。女に連絡するにはW運送に出かけるか、アパートに押しかけるしかなかった。翌週の夜、僕はアパートに押しかけた。竹藪が黒々と巨大な布きれのように頭を垂れていた。
女はエッと露骨に嫌な表情をしたが、近所をはばかったのだろう、僕を部屋に上げた。僕は「貴女のことが忘れられない、貴女のことをもっと知りたい」、「ぜひ付き合って欲しい、貴女を大切にしたい、貴女を知ることで僕は成長する」などと苦しい胸中を告白した。
女は迷惑そうに、「若いから仕方がないけど君は発情しているのよ」、「たった一回のセックスで、こんな告白するなんて、初心(うぶ)すぎるわ」と言った。女がセックスと言ったのが印象的であった。セックスと言う響きには、僕を苦しめる性の生々しさが感じられなかった。
「君のような真面目な子に、手を出した私も悪いんだけど」、「君は若いから、もっと普通の娘(こ)と付き合ったらどう・・君の愛を受け止める娘は一杯いるわ」と追い帰そうとした。
連日連夜、妄想に悩まされてきた僕は我慢出来ず女に襲いかかった。女は押し倒されながら抵抗したが、唇を奪うと身体の力を抜いた。興奮する僕に逆らわず受け入れた。
しかし、女に前回のような昂ぶりはなく、僕も男女の絶対的な合一、全的な絶頂を経験しなかった。それは商売女との交わりに似ていた。
その後も何回か女の部屋に押しかけた。
発情した僕を追い返しても仕方がないと思ったのだろう、女は渋々受け入れ巧みに慰めた。そんな折り、女の本音だろう、僕の頭を冷やすために言ったものである。
「寝たからと言って、あれこれ言われたくないの。私の身体は私のもの、私の心は私のもの。そんな事、男なら当たり前じゃない」
「男も女も、セックスに余分なものを付け過ぎるのよ。世間はそれを愛と言って賛美している。・・セックスはセックスよ、人生を掛けるものでじゃないわ」
「私は最高のセックスを求めているの・・色んな男と楽しんできたわ、これからも色んな男と楽しむと思う。誰と楽しもうと勝手じゃない」
昼と夜で豹変(ひようへん)する女にいつも男の気配、男の匂いがした。若い僕は、自分のものにならない女に激しく傷つき、苦しみ、そして嫉妬した。
四
冬の寒さが緩んで、京都が受験生や観光客で賑わい始める季節であった。
突然、女がアパートから居なくなった。最初は気にしなかったが、何度訪れても不在が続くと心配になった。アパートの大家に尋ねると、「お母さんが重体で実家に帰った」とのことだった。女の事情を知っていたから、僕はすぐにA町に駆けつけようかと思ったが、一九歳の若造の出る幕はなく、はやる気持ちを辛うじて抑えた。
それから1ヶ月ほど経った、満開桜が散り始める頃であった。
女から留守電が入っていた。女の声は憔悴して弱々しく、いつものクールさが無かった。電話口で泣いているようであった。
「連絡しなくてご免ね・・母が亡くなったの」
「母の最期は淋しかったわ。私だけが支えだったのね。もっと優しくしてあげたらと後悔するわ・・」
「A町の家は整理したし、もう帰ることはないわ。本当に独りぼっちだわ」
「淋しいわ・・無性に淋しいの・・母よりもっと淋しい人生を送る気がするの・・」
「今は誰にも会いたくないの。連絡するまでそっとしてくれない。お願い・・」
憔悴した女の声を聞いて、僕の心は激しく疼い(うずい)た。今すぐ会いたい、側にいてやりたい、何も出来なくてもいい、一緒にいたい。
翌日、僕はバイトを終えるとアパートに駆けつけた。春の夜はおぼろ月夜で、月明かりに田園も人家も竹藪もボ~と白く霞んでいた。焦る気持ちにアパートまで走った。夜風に桜の花びらがハラハラ舞った。竹がサワサワ揺れていた。
部屋の明かりは消えていたが、女がいるのは確実だった。僕はドアを叩き、声を掛けた。何度か叩いて、やっと女はドアを開けた。不安げに覗いた女の顔は青ざめ、泣きはらしたのだろう、瞼(まぶた)が腫れていた。あんな痛々しい女を見たのは初めてだった。
部屋はベッドランプだけが点いていた。山積みされた段ボールが天井に大きな影を作っていた。女は物憂げにベッドに横たわった。僕は女の側に腰を降ろした。やっと女に会えて切なかった。切なさで胸が張り裂けそうだった。女の頬に手をやった。避けるように女は背中を向けた。
「淋しいの、無性に淋しいの、背中がスースーするの・・」
僕はベッドに滑り込んで、女の背中に身体を添わせた。背中越しに伝わる鼓動は小刻みで弱々しかった。僕は女の背中に身体を重ねたままじっとしていた。お前は独りでない、僕がいるのだ、僕と二人でここにいるのだ。
女の背中の向こうで、月光に照らされた竹藪が揺れていた。窓枠に切り取られた竹藪は、水槽の中で揺らぐ淋しげな水草のようであった。
僕の温もりが淋しさを癒したのだろうか、女は身体の向きを変え唇を求めてきた。月明かりに女の身体は乳白色に輝いていた。神々しかった。僕たちは深く舌を絡ませあった。女は静かに昂ぶっていった。