嵯峨野の女
僕が「凄いですね。ジャズのこと、どこで勉強したんですか?」と聞くと、女は「な・い・しょ・」と片眼をつむり、グラスを飲み干した。
祇園店の出来事を聞きたかったが、女はそれに触れる気がなく、「ところで・・」と話を僕に振った。
「君は何処から来たの?」
僕が「京都の北部です、M市です」と応えると、
「そうか、君も冬の日本海を見て育ったんだ」と懐かしそうな眼差をした。
僕が「貴女も日本海ですか」と訊くと、
「丹後半島突端、A町よ、知ってる?」と言い、
「A町は荒れ狂う日本海にすがりついている小さな町よ」、「冬の日本海の荒れ方はパンパじゃないんだから・・」
そう言うと、女は席を立ってカウンターに行った。戻ると僕にささやいた。
「次はマッコイ・タイナーのアトランテックよ」
叩きつけるような、迸る(ほとばしる)ような、怒濤(どとう)のピアノ曲が流れた。それは、うねり、高まり、砕け散る大海原・・咆哮し、七転八倒し、悶絶(もんぜつ)する冬の日本海を連想させた。
演奏が終わると、黙ってスウィングしていた女が語り始めた。
「私は変な女の子だったの・・冬の荒れ狂う海が好きでね」
「冬の丹後は大陸から雪雲が降りてくるの。北風が何日も何日も水雪を吹き付けるわ。暗い海がこれでもか、これでもかと牙をむくわ」
「海の怒りは止めどないの。荒れ海は何日も続くわ。咆哮し続ける海のエネルギーは途方もないのよ・・」
「大波を叩きつけては引き返し、また叩きつける。海の果てしない怒りを見ていると、スカッとするの。自分の小さな怒りが吹っ飛ばされるわ」
「A町は哀れだわ・・咆哮する海が怖くて顔を上げないのよ」、「吠える海にひれ伏しているのよ。へばり付いて、頭を下げて、ひたすら怒りの収まるのを待っている」
「自分が着るはずもない縮緬(ちりめん)をせっせと織って、西陣に買い叩かれる。哀れな町だわ。・・子供の頃から絶対に出てやると思っていた」
「高校を出ると京都の私大に進んだわ。インドネシア語をマスターしてバリ島で暮らそうと思ったの。日本海と対照的な、光溢れる陽気なアジアに憧れたのね」
「ところが卒業の年に母が倒れた。せっかく大手ツーリストに就職が決まっていたのに、自分の不運を嘆いたわ」女は一瞬悔しそうな表情を見せた。
僕が同情して「お母さん思いなんですね」と言うと、憮然とした表情になった。
「母思いなんかじゃないわ。私は母一人子一人なのよ・・」、「倒れた母を捨てて遠くへ行けないわ。外国は無理だから、京都に配属してもらったの」
「京都ではもっぱら外人さんの観光手配で、旅行取扱の資格を取るとツーリストを辞めたわ」
僕も母子家庭で学費に苦労していたから、女手一つで大学を卒業したのを不思議に思った。
「私大の学費はどうしたんですか?」
女のナイーブな所を突いたようであった。
「母は網元の妾、二号よ。私は私生児なの」、「学費は網元が出してくれたわ」と怒ったように言い、母の事を語った。
「母は哀れな女だわ。まるでA町のよう・・」
「若い頃は芸者をしていて、私を妊んで網元に囲われた。彼は町会議長になったわ。私が町会議長の私生児である事は町の皆が知っていたわ・・」
女は父のことを彼と呼んで続けた。
「彼は妾を囲うのを勲章のように思う男で、病弱な母はそんな男に嫌われまいとひどく気を遣っていた。私はそんな母が情けなくて、男も母も許せなかった・・」
「A町は小さな町だからね、男が訪れた翌日は必ず本妻の子供に虐められた。誰も助けてくれないし、あんな冷たい町は海にさらわれたらいいのよ・・」
切々とすすり泣くようなアルトサックスが流れた。
女は「アートペッパーのモダンアートよ」と教えてくれた。大都会の孤独がひしひし伝わる見事な演奏であった。余りの哀切さに僕らは会話を中断した。
曲を聞き終わると、女は独りごちた。
「強い男は嫌いだわ」
「男ってすぐ保護者面するじゃない、ぞっとするわ」
「母のような生き方は屈辱よ、女は男に頼らず生きるべきよ」
経験のない僕はどう応えていいのか分からなかった。気まずい沈黙が流れた。
女はプライベートなことを喋りすぎたと思ったのだろう、気を取り直したように言った。
「ここのシチュー、オニオンたっぷりで温まるのよ」
僕らは運ばれてきた名物シチューに夢中になった。額に汗してフーフーしながら味わった。身体が温まるとすっかり幸せな気分になった。朗らかになった彼女は僕のことを尋ねた。
気分の良くなった僕は、高校は水泳部で京都府大会に出場したこと、母子家庭で親戚に学費を借りていること、新聞屋を辞めてから生活が大変なこと、将来は海外で仕事をしたいことなどを語ったと思う。
女はにこやかに頷きながら水割りを何杯も飲み干した。頬もうなじも胸元もピンク色に染まっていった。潤んだ目が熱っぽくなり、祇園の夜の妖しさが仄かに漂いだした。
店を出ると、雑居ビルのネオンは消えていた。冬の闇が海のように街を浸していた。僕らはすっかり酩酊していた。比叡降ろしは火照った身体に心地良かった。
闇の中をハラハラ白く舞い落ちるものがある。女はそれを掴もうと両手を広げた。
「雪よ、雪よ、初雪よ~」
雪は酔った女の手を逃れて、黒く光る高瀬川に吸い込まれていった。
酒をしたたか飲み、ジャズに痺れ(しびれ)、初雪と戯れ、酩酊した僕らは、恋人のように肩を組んでいた。女は「君は送れ!」と命じた。僕がタクシーを止め、女が「嵯峨野へ」と行き先を告げた。
タクシーは夜の静寂(しじま)を抜けて嵯峨野へ向かった。北上するにつれ、粉雪がボタ雪に変わっていった。運転手は「明日の朝は積もりますね」と呟いた。
三
嵯峨野はひっそり深い闇の底に沈んでいた。
女のアパートは竹藪の側にあって、竹林もアパートも駐車場も白く薄化粧していた。僕は酔っぱらった女を抱えて部屋に運んだ。祇園の夜の毛皮コートが掛かっていた。会社に着てこない派手なスーツもあったし、定時に会社を出る女が夜のバイトをしているのは確実である。
女をベッドに寝かせるとヒーターを入れた。どうしたものかと迷っていると、突然、女は「寒い、寒い、シャワーを浴びる」と言いだした。ブラウスを脱ごうとした女は熱っぽく潤んだ目で僕を見つめた。
「・・手伝ってよ」
ただならぬ女の様子に初心な僕は緊張した。おそるおそる手をやると、女はグイと僕の手を握った。ビビッ!電気のような衝撃が全身に走った。躊躇していた欲望が爆発した。僕は呻き声をあげて女に襲いかかった。ブラウスを剥ぎ取り、パンツを脱がせ、全裸の女は嬌声をあげながら浴室に飛び込んだ。
迸るシャワーを浴びながら、僕らは獣のように交わった。
明け方、女に小突かれて僕は目覚めた。寝ぼけ眼を開けると、シャワーを浴びたのだろう、女がバスタオルを捲いて立っていた。不機嫌な顔つきで「いつまで寝ているの!」となじった。僕を連れ込んだ事を後悔していた。
「アパートの人に見つからないようにすぐに出て行って!」いつもの有無を言わさぬ物言いだった。