逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~
息子を持つ友人が嘆息していたのを思い出す。普段は特に娘だ息子だと意識したことはないけれど、たまに後片付けや洗濯を手伝ってくれるときは、この友人の科白が頭をよぎるのだった。
熱いシャワーを頭から浴びると、生まれ変わったような気分になる。まだ濡れた髪の毛を萌がタオルで拭きながら廊下を歩いていた時、リビングのドアがほんの少し開いているのに気付いた。隙間から僅かな光が漏れている。
「ねえ、パパ、やっぱり、ママって、最近少し変だよ」
突如として聞こえてきた言葉に、萌の脚が止まる。
「何だかさ、やけにそわそわしてたり、かと思ったら、ボーっとしてたりしてるの。今までなら、絶対にあんなことなかったよ。萬里が話しかけても、ろくに返事しないんだよ?」
萬里の声だ。話題が自分のことだけに、萌はその場に脚を縫い止められたまま動けなくなった。
「何だ、そんなつまらない話をしたくて、わざわざ後片付けを引き受けたのか?」
史彦の低い声が応えている。
「つまらなくなんかないよ。パパ、しっかりしなきゃ。奥さんがそんな風に心ここにあらず状態になったら、浮気してるって言うよ」
萌は、いきなりの科白に度肝を抜かれた。十一歳の子どもの発言とは思えなかったからだ。
それは史彦も同じだったようで、やや高めの声が聞こえた。
「何だ、お前、どこでそんな話を仕入れてきたんだ?」
「テレビのワイドショーでやってたよ。〝妻の浮気発見方法〟とかっていうヤツ。この間、パパとママ、二人で熱心に見てたじゃない。私と芽里がアニメを見たいっていうのに、あんなつまらないワイドショーのせいで見せて貰えなかったんだよ」
最後は、いかにも子どもらしい拗ねた口調に、思わず微笑みが浮かぶ。そういえば、そんなこともあったと今更ながらに思い出す。
思い出し笑いを堪えている萌の耳に、史彦の抑えた声が聞こえてくる。
「くだらんことばかり言ってないで、もう寝なさい。ママにだって、パパやお前たちにも言えない心配事の一つや二つはあるだろう。考えてごらん、萬里。子どものお前だって、誰にも言いたくない話はあるはずだ。大人っていうのは、子どもが考えるほど楽な生きものじゃないのさ」
「―ねえ、パパ、ママは大丈夫かな?」
不安げな声に胸をつかれる。
娘を安心させるような夫の声が響いた。
「大丈夫さ、萬里のママは、しっかりした女性だ。今は何か悩みがあって沈み込むことが多くても、また元気で明るい元のママに戻るよ」
「うん、判った。ママが元気になるまで、萬里はちゃんと待つよ。おやすみなさい、パパ」
萬里の声がしたので、萌は慌ててキッチンへと駆け戻る。ほどなく階段を登る脚音がして、二階の子ども部屋のドアの閉まる音が響いた。
萌は脚音を立てないようにリビングの前に戻った。扉はまたわずかに開いていた。再びリビングを覗いた時、史彦は窓際に佇み、何かを物想うように窓の外にひろがる景色を眺めていた。一歩外に出れば、深い無限の闇が垂れ込めている。その時、夫が何を考えていたのか―、こちらに背を向けてい史彦の表情を見ることはできなかった。
翌日の昼過ぎ、萌は例の写真館の前に佇んでいた。その日は朝から生憎の曇り空だった。鈍色の雲が低く空をいっぱいに覆っている。
今にも泣き出しそうな空を見ていると、こちらの心まで憂鬱になってくる。灰色に塗り込められた風景の中で、写真館は相変わらずひっそりと建っていた。緑のアイビーが眼に滲みる。ここ二、三日は雨が降っていなかったせいか、舗道傍の紫陽花は元気がなく萎れていた。
自分がどれだけ愚かなことをしているか、萌には判っている。夫や子どもを心配させながら、祐一郎のことしか考えられない自分。
そんな自分はきっと妻としても、母としても失格だ。しかも、祐一郎には妻もいて、彼自身は萌がこれほどまでに彼に惹かれていることすら知らない。
まるで萌の一人芝居だ。それでも、行かずにはいられなかった。せめて、もう一度、あの写真館に行って、あのひとの声を聞き、顔を見てみたい。写真館に行く理由など考えるゆとりもなく、ただただ彼に逢いたい一心だけに突き動かされるように写真館に行ったのだ。
童話に出てくるような煉瓦造りの建物をひとしきり眺めた後、曇りガラスのドアを思い切って押す。
ここで祐一郎に写真を撮って貰ったのは、ほんの十日ほど前のことなのに、まるで一年、いや数年も経ったような気がする。
すべてが懐かしいような、愛おしいような気がして、萌はその感情の本流に押し流されそうになる。
入り口付近のカウンターには、六十半ばほどの男性がいた。萌も何度か見かけたことのあるこの写真館のオーナーである。こうして間近でつくづくと見たのは初めてだが、やはり伯父と甥という間柄か、心なしか眼許辺りが祐一郎に似ているような気がしないでもなかった。
「済みません、田所祐一郎さんは、こちらにいらっしゃいますか?」
脚を踏み入れるには踏み入れたものの、切り出すには勇気を要した。もし、怪訝な表情でもされたらと考えただけで、このまま回れ右して引き返してしまいたい衝動に駆られる。
だが、ここまで来てしまったのだ。今更、後戻りなどできるはずがない。
小柄なオーナーが眼鏡越しに、萌をしげしげと見た。
「祐一郎? ああ、祐一郎ね」
ロマンスグレーのオーナーも若い頃は、なかなかのイケメンだったに違いない。祐一郎と違って上背はないが、それでも女性には十分モテただろう。
「以前、証明写真を祐一郎さんに撮って頂いた者です」
萌は早口で言った。もっとも、この科白は、かえって余計だったかもしれない。萌にしてみれば祐一郎との関係というか拘わりをあれこれと訊ねられると面倒だから先に口にしたのだが、オーナーは細かい事に拘るつもりはないようだった。
「わざわざ来て下さって申し訳ないですが、あいつは滅多にここには来ませんよ。多分、あなたがおっしゃってるのは、私が結婚式の写真を撮るために出張した日のことでしょうねえ。あの日は、たまたま仕事で出かけなければならなくて、祐一郎に応援を頼んだんです。元々、大手の写真スタジオ専属のカメラマンとして働いてますから。普段は、そっちの方にいますよ」
「そう―なんですか」
私の中にたとえようのない感情がひろがってゆく。落胆、喪失?
「それに、今日は、スタジオの方にも出てないんじゃないかな。あいつの嫁さんが二人目妊娠中で、昨日の夜、急に産気づいたって電話がありましてね。何でも生まれるのが一ヵ月以上早くなりそうだっていうんで、そりゃあもう大騒ぎで。昨日からずっと自宅にも戻らずに病院で嫁さんに付き添ってるはずです。まだ手のかかる上の子がいるもんで、私の家内が預かってますよ」
萌は思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
―はい、田所でございます。
携帯に出た女性の可愛らしい声が甦った。
オーナーは萌の様子に格別不審を抱いた風もなく、屈託なく言った。
「祐一郎にご用でしたら、伝言しましょうか? 何なら、あいつのいるスタジオの電話番号を―」
オーナーは親切のつもりで言ってくれたに違いない。でも、萌は到底、最後まで聞いていられなかった。
「ありがとうございました」
作品名:逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~ 作家名:東 めぐみ