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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

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 しかも自分には優しくて誠実な夫も可愛い二人の娘たちもいるというのに。
 でも、どれほど現実に起こり得ないと思うことでも、起きてしまうことはままある。
 自分では認めたくはないことだが、田所祐一郎への想いが〝恋〟であるのは萌にも漠然とは理解できた。
 突如として気付いた事実に愕いている間に、歌は終わった。
 逢いたいから―。歌詞や旋律をすべて憶えられなくても、ただ、この歌を耳にしたときの心を揺さぶる切なさだけは残った。逢いたくて、逢いたくて、逢いたいのに、逢えない。
 だから、彼のことを想う度に神さまに願う。
 どうか、あのひとにもう一度だけ逢わせて下さい。彼に逢いたいから、この胸でただ何度も願うのだ。
 しかも、相手は萌がこれほどまでに彼に惹かれていることさえ知らない。いや、たった一瞬、客として相手をしただけの萌のことなど、その日が終わる前に忘れてしまっているだろう。彼にとって、萌はあの写真館を訪れる大勢の客の中の一人にすぎないのだから。
 そう、彼は萌にとっては、遠い男(ひと)だった。たとえ、どれほど逢いたいと願っても。
 
 意外なことに、その日出逢ったカメラマン―田所祐一郎は、どっかりと萌の心に棲みついてしまった。
 萌は一日に何度も小さな写真館で祐一郎と過ごした時間を思い出す。使う当てのない証明写真は、いつも持ち歩くパスケースに入れて、大切な宝物のように時折眺めた。
 数日後、萌は携帯電話を握りしめ、今日これで何度目になるか判らない溜息をついていた。
 一体、幾度、祐一郎に電話しようとしたことだろうか。彼の携帯のナンバーは名刺にプリントされていたから、判っている。
 でも、萌は何度も電話しようとして、その度に手を止めた。今ももう一時間以上も前から、ずっと、そうやって携帯を握りしめたままだ。
―何を馬鹿げたことをしているの、私は。
 自分でも愚かだとしか言いようがない。
 たった一度しか逢ったことのない、しかも向こうは自分を忘れているに違いない相手のために、一人で悶々と思い悩んでいる。
 彼は既に萌のことなど思い出しもしないだろうのに、自分だけが彼を忘れられないでいる。それが何かとても滑稽で、自分が哀れにさえ思えた。
 その日もまた祐一郎のことばかり考えて過ごし、夕刻になった。小学校から帰った二人の娘たちを普段と変わらない笑顔で出迎え、いつもどおりに夕食の支度をする。
 今日のメニューは、子どもたちの大好きなデミグラスハンバーグだ。それに、これも子ども向けのポテトサラダにかぼちゃの冷製スープ。
 ひととおり下ごしらえを終えると、萌の意識は再び携帯電話に向かう。帰宅した子どもたちは宿題を済ませると、近くの学習塾に出かけていった。
「行ってきま~す」
 萬里と芽里が口々に叫びながら、騒々しく玄関を出てゆくのを聞きながら、何げなくリビングの時計を見る。
 午後五時。それから実に一時間余り悩んだ挙げ句、萌は、とうとう携帯電話のナンバーをプッシュし始めたというわけだ。
 後から考えても、自分がどうしてそこまで大胆になり切れたのかは判らない。使い古された陳腐な表現ではあるが、〝誘惑に負けた〟或いは〝魔が差した〟としか言いようがない。
 〇八〇―△△△―×××。萌は既に幾度も諳んじた祐一郎の携帯ナンバーを次々に押していった。
 しばらく間があった後、発信音が響いてきた。誰も出ない。
 どこかでホッとする自分がいた。もし祐一郎が出てきたとして、何をどう言えば良いのか。電話をかけた口実すら、萌は全く用意していなかったのだ。空しく鳴り響く発信音を聞きながら、萌の中で諦めがひろがってゆく。
 そのときだった。
 ふいに発信音が途切れ、女性の声が聞こえてきた。
―もしもし。
「あ、あの―」
 萌は絶句した。祐一郎ではなく、全く別の人間が出ることなど想定していなかった。
―もしもし、田所でございますが?
 受話器を通して聞いても、可愛らしい声だった。萌は、その声の持ち主を咄嗟に思い描いていた。色の白い、清楚な感じの女性―、歳は三十歳くらい。美男の祐一郎の隣に並んでも遜色のない、可愛らしくて美人の奥さんだ。
 萌は、何も言わず電話を切った。
 なんて馬鹿な私。
 自分で自分を嘲笑わずにはいられない。三十六歳の祐一郎が独身でいる可能性は限りなく低いはずなのに! その歳であれば、結婚していたとしても何の不思議もない。
 なのに、萌は彼が家庭持ちだとは片々たりとも考えていなかったのだ。
 萌の脳裡に一つの考えが浮かぶ。
 多分、今、祐一郎は自宅にいるのだろう。或いは自宅ではなくても、彼の傍には奥さんがいる。彼が妻と呼ぶ女性が。
 萌は子どもたちが塾から戻ってくるまで、自分が何をしていたのか憶えていない。気が付けば、真っ暗な部屋で灯りもつけないで、ソファに座り込んで膝を抱えていた。
「ただいま、ママ、どうしたの?」
 萌は緩慢な動作で立ち上がり、リビングの灯りをつけた。
 萬里がまた心配そうな顔で見上げている。
「ごめんね、ちょっと頭が痛くなっちゃって。ボウッとしてたみたい」
 それでもなお不安を訴える子どもの顔から眼を背け、萌は空元気を装い声を張り上げる。
「さあ、ハンバーグを温めなくちゃ。萬里と芽里も手伝ってくれるでしょ」
「ママ、私はサラダをお皿につけるから!」
 芽里がはしゃいだ声を上げた。まだ七歳の芽里には、萌の微妙な変化は判らないらしい。上の萬里は既に十一歳になっているだけに、母親の様子がいつもと違うことを敏感に察知しているのだろう。
「ママ―」
 何か言いたそうな萬里の肩を萌はポンポンと軽く叩いた。
「もう平気。萬里と芽里の顔を見たら、元気出たし。頭痛もあっという間に治っちゃった」
 いけない、いけない。子どもに心配をかけては駄目だ。
 萌は懸命に自分に言い聞かせた。
 それでも、どうしても瞼には祐一郎の面影が浮かんでしまう。それを子どもに悟られまいとすると、いつもよりは不自然なハイテンションになるのは致し方なかった。そんな母を萬里が心配そうに見ているのにも萌は気付かない。

 その夜半、萌はシャワーを済ませて、風呂場から出てきた。夫の史彦の帰宅は大抵、十二時近い。営業という仕事柄、色々と付き合いもあれば、時には残業で遅くまで会社に居残っていることもあるのだ。
 だから、夕食はいつも娘たちと先に済ませておく。その日、史彦が帰ってきたのは午後十一時で、常を思えば早かった。萌は冷めたハンバーグを温め直し、史彦の食事が終わるまでは甲斐甲斐しくキッチンで動き回る。
 その日はどういう風の吹き回しか、萬里が後片付けの皿洗いをしてくれるというので、萌は後を任せて風呂場に直行した。
 こんな時、やはり娘は良いと思う。子どもを持つ前、萌はできれば、息子と娘一人ずつ欲しかった。しかし、他人は
―男の子よりは女の子の方が絶対良いわよ。
 と言う。成長してからも話し相手になるし、家事を手伝ってくれるから―というのがその主な理由だった。
―息子なんて、やんちゃで乱暴で、女親にはついてゆけないわ。思春期になったら、途端に母親と口も利かなくなっちゃうしね。その点、萌は良いわね。可愛い娘が二人もいて。羨ましいわ。