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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

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 踵を返そうとした萌に、オーナーが訊ねてくる。
「伝言は要らないんですね?」
 萌は軽く頷き、再び頭を下げた。
 パタンと、背後でドアが閉まる。その小さなドアは、萌と祐一郎の世界を隔てる分厚い扉だ。
 いいや、判っていた。最初から、萌は祐一郎と同じ世界になどいなかったのだ。十日前のあの日、ふとした偶然が重なって、萌と祐一郎のいる世界がほんの一瞬、交わっただけ。
 いつしか外には絹糸のような雨が降っていた。萌は傘もささず、一歩雨の中に踏み出す。
 眼の前の純白の紫陽花が雨に打たれて、しっとりと潤っている。萎れていた葉も鮮やかな緑に甦り、生き生きとして見える。
 数歩あるいたところで、舗道の向こう側から歩いてくる人影に眼を瞠った。見上げるほどの長身、長い脚。さらさらとした癖のない前髪を無造作にかき上げる仕種。
―祐一郎さんッ。
 萌は叫び、駆け寄ろうとする。
 しかし、よくよく見れば、その人が祐一郎であるはずがなかった。確かに歳格好は似ていないこともないけれど、面立ちは全く違う別人だ。すれ違う時、その男性が萌を怪訝な顔で見て通り過ぎた。
 それも当然だった。強い雨ではないにしても、ずっと雨の中を立ち尽くしていたのでは頭からずぶ濡れになる。傘も差さず、雨の中に茫然と立っている萌は自分では気付いてはいないが、かなり目立った。
―大勢の人の中から、何かの縁でその人が僕に写真を撮って貰いたいと思って、わざわざ足を運んでくれる。それって、凄いことだと思うんだ。だから、僕もその縁を大切にしたい。僕に写真を撮って欲しいと頼んだことを、その人に後悔させたくないんだ。
 あのひとの言葉が耳奥でこだまする。
 それに対して、萌は何と応えたのだったか。
―ここに来て、お話を聞いている中に、良い加減な生き方をしてきた自分にやっと気付くことができたような気がします。どれだけできるか判らないけど、私ももっと真剣に生きてみようと思います。
 縁、縁―、萌は心の中で何度も繰り返した。教えて、祐一郎さん。あなたの言ったように、私とあなたが出逢ったことは本当にただの偶然じゃないの? 何らかの縁があったから、私たちは出逢い、ほんの一瞬でも貴重な時間を共に過ごすことができたの? たったそれだけの縁でも、私たちが出逢えたのは偶然じゃないのね。
 むろん、瞼に浮かんだ彼が応えてくれるはずはない。
 何故なら、その応えは、自分こそが見つけなければならないものだから。
 帰ろう、私のいるべき場所に、私を必要としている人たちがいる元の世界に。
 あのひととの出逢いを、縁を無駄にしたくはないから、もう後ろを振り返るのは止めて、私は前を向いて生きよう。
 そして、いつか、もしどこかで、あのひとと私の生きる世界が再び交わることがあったとしたら、再び出逢えることがあったとしたら、よりいっそう輝いて素敵になった私をあのひとに見せたい、そんな私をあのひとに撮って貰いたい。
 たとえ、その日が永遠に来なくても、あのひととの出逢いを無意味なものにしたくはないから、私は真摯に生きたい。一枚の写真を撮るために、一人一人の最高の笑顔を撮るために人生で出逢うすべての人と真剣に向き合っているあなたのように。
 雨に打たれたせいで、萌の長い髪も、オフホワイトのコットンのワンピースも既にしとどに濡れている。萌は頭上を仰いだ。
 淀んだ空から、雨は絶え間なく降りしきる。
 突如として、どこかから聞き憶えのあるメロディーが流れてきた。ハッとして振り向くと、向こうから歩いてくる制服姿の女子高生が携帯を手にしている。どうやら、その携帯から流れてくる着信音らしかった。
 胸が苦しくなるような、切なくなるよう曲。

♪どんな時も
 想えばいつも 感じればずっと
 いつも側にいる 笑ってみて
 面影をいつも 抱きしめている
 恋しくて 切なくて
 涙がとまらなくて

 カーステレオから聞こえてきた、あの曲だ。
 頬を熱い雫がころがり落ちる。
 萌はその雫が涙かなのか雨滴なのかさえ判らず、じっとその音に耳を傾ける。
 すれ違った女子高生が遠ざかってゆくにつれ、あの曲も聞こえなくなってゆく。
 萌は何かを振り切るように小さく首を振ると、ゆっくりと前に向かって歩き出した。

 
 




 時は流れてゆく。むろん、私と彼の世界が交わることは二度となかった。私はあれ以来、樋口写真館の前を何度となく通り過ぎたが、自分から訪ねようとしたことはなかったし、彼―祐一郎さんと偶然でも出くわすことはなかった。
 それでも、私は、もう悩まない。たとえ恋とは呼べないものだとしても、彼との出逢いは、私にとっては紛れもない〝恋〟だった。
 想えば、感じれば、私はいつでも彼の笑顔を思い出せる。そして、想い出の中の彼は面影となり、いつも私を励まし背中をそっと押してくれるのだ。
 どんな些細なことでも、真摯に向き合わなければならないと、それが人としての生きる道だと―。その大切なことを私に教えてくれたのは、長い人生の中でほんのゆきずりで出逢ったにすぎない一人のフォトグラファーだった。