逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~
史彦もまた父に負けず劣らず律儀なので、夫はその約束をいまだに忠実に守り続けている。父も母も二人の孫娘を見ると相好を崩し、まるで百年以上も逢わなかったとでも言いたげに構うのは毎度のことだった。大抵は土曜日の昼前に訪ね、その日の夜、皆で夕食を囲んでから帰途に就く。母はこれ以上はないというほど張り切って台所に立ち、萌はそんな母を手伝う。史彦は父と二人でゴルフ談義に興じる。
もっとも、ゴルフなど全く縁のない史彦は、ただ舅の自慢話に黙って耳を傾けているだけだ。史彦の両親は栃木にいるが、史彦もまた一人息子である。数歳違いの姉がいるが、こちらは他家に嫁いでいる。今はまだ両家の両親共に健康そのものだから良いけれど、いずれは両親たちも、もっと歳を取る。
そうなった時、同居はどうするのか、史彦の両親、萌の両親、一体どちらの両親と同居するのか―、実は頭の痛い問題が山積みなのだ。史彦は親孝行だから、萌の両親も大切にしてくれる。だが、やはり、実の親に対する情は特別だろう。それは萌だって、同じだ。
自分で言うのも何だが、見合いした直後から、史彦からはかなり猛烈なアタックがあった。縁談の仲介を取ってくれた父の友人も呆れるほどの連日の電話攻撃で、婚約が決まったのは見合いからひと月後、結婚式は何と三ヵ月後という超スピードだった。
おっとりとした普段の夫からはおよそ想像もできないほど、そのときは速攻で萌にプロポーズしてきたのだ。史彦の実直な人柄を父は気に入ってはいたものの、一人息子であるということ、実家が栃木と遠く離れていることなどに不安を抱いていたようで、実のところ、最初は反対していた。史彦がいずれ家族を連れて栃木に戻ってしまえば、萌とも滅多に逢えなくなると思っていたようだ。
それでも、娘を真剣に愛する史彦の熱意にほだされ、結局は二人の結婚を承諾した。
その日もいつものように、実家を出たのは既に夜になってからのことだった。梅雨の晴れ間は一日と保たず、夕方から再び雨が降り始めていた。
既に辺りの風景は夜の底に沈んでいて、古くからの家並みが続く住宅街は静まり返っていた。道路沿いの家々に灯るオレンジ色の灯りだけが闇に滲んで浮かび上がっている。
時計は午後七時を回り、後部座席に芽里を真ん中にして萌と萬里が座った。芽里は疲れたのか、車に乗るとすぐに眠ってしまった。
フロントガラスのワイパーが作動する音だけが静寂の中、やけに耳につく。史彦も父の長話の相手に疲れたようで、いつもより更に無口だ。黙々と運転に集中している。
その時、何を思ったか、史彦がカーステレオのスイッチをオンにした。
途端にDJらしい女性の声が響いてくる。やけにハイテンションな声は、今の場合、ちょっと場違いというか耳障りにも聞こえる。
―はーい、それでは次の曲は、沖縄は那覇市のペンネーム、ミホリンさんからのリクエストで、Kの〝会いたいから〟です。
言い終わると同時に、曲が流れてきた。
萌は聞くともなしにシートに背を預け、耳を傾ける。
♪会いたいから 会いたいから
この胸で願う ただ何度も
あなたを想う度
怒る仕草とか ふと見せた優しさが 愛しくて暖かくて
些細な会話とか そんな事ばかり 思ってしまうんだ
強くなりたいな 何かが起こる度に 弱気になる自分がいて
すごく寂しくて いないあなたの影を 捜してしまうから
どんな時も
想えばいつも 感じればずっと
いつも側にいる 笑ってみて
面影をいつも 抱きしめている
恋しくて 切なくて
涙がとまらなくて
眩しい日差しに 面影を探している 困った顔 微笑(わら)った顔
思い返しては 返事のない会話を またしてしまうんだ
忘れられたら 忘れられたら
この胸の痛みも 楽になって
思い出になるかな
ありがとうの言葉も 謝りたい事も
もっとあなたに沢山伝えたかった
もっとそばにいて
あなたを想う度
歌詞を聴いている中に、心が震えてきた。何という切ない曲だろう。片想いか、或いは既にエピローグを迎えた恋を歌ったもののようだが、離れていても相手を想い続ける心情がノリの良いメロディーに乗って切々と紡がれてゆく。
どれほど経ったのだろう。
「ママ、どうしたの?」
ふいに我が子の声で現実に引き戻された。
気が付くと、萬里が不安そうな瞳で萌を見つめている。
「ママ、泣いてるよ?」
娘のひと声で、萌はその時初めて、自分が泣いていることに気付いた。
萌は指先でそっと自分の頬に触れる。流れ落ちる熱い雫を指先でぬぐった。
「ごめん、何でもないの」
萌は前方で運転している夫を気にしながら、慌て萬里に微笑みかける。Kという歌い手を萌は知らないし、この歌も聴いたことはなかった。でも、聴いている中に、萌の心の中に浮かんでいたのは、田所祐一郎の顔だった。
―僕もその縁を大切にしたい。僕に写真を撮って欲しいと頼んだことを、その人に後悔させたくないんだ。ああ、ここに来て写真を撮って良かったと思って貰えるような写真を撮る―それこそが僕の使命だと思うから。
昨日から幾度、あの真摯な言葉を思い出しただろう。時に少年のようにも見える整った顔立ちや熱っぽく夢を語る表情を瞼に甦らせたことか―。
もしかしたら、自分は恋に落ちてしまったのかもしれない。萌は、しなやかな鞭でピシリと頬を打たれたような衝撃を受けた。
史彦と付き合っている間は、一度として感じたことのないような―切ないほどのこの胸の疼きは、かつてOLになってまもない頃、知り合った新聞記者に抱いた恋心に似ていた。それは各有名メーカーの新入社員へのインタビューという形式で、萌が取材対象に選ばれたのは、ほんの偶然だった。
萌は当時二十八歳だというその若い新聞記者にひとめ惚れしてしまったのだ。そのときは奥手の萌にしては珍しく告白して、数回デートするまでには至ったものの、結局、萌の一方的な片想いということで終わった。
祐一郎に対する気持ちは、あのときの気持ちに怖ろしいほど似ている。相手のことを考えただけで、溜息が出そうなほどの胸苦しくなる心、一日中、今頃、あのひとはどこで何をして、何を考えているのだろうかと思って涙してしまうことさえも。
「大丈夫よ、眼にゴミが入っただけだから」
萌は殊更明るい声で応えながら、娘を安心させるように、もう一度笑顔を拵えた。
だが、何で今更、どうして―という戸惑いもぬぐえない。ひとめ惚れという言葉はあるし、確かに相手に出逢った瞬間、恋に落ちるといったことも存在しないわけではない。
人はそれを〝運命の出逢い〟などと名付けるけれど、四十歳になって今更、恋愛小説かドラマのような恋が始まるなんて思えないし、思ったこともない。アラフォーの人妻が劇的な恋に落ちるなんて話は所詮、ドラマの中での話で、現実に起こり得るはずがないのだ。
萌は少なくとも今までは自分を〝常識人〟だと考えていたし、信じて疑ったこともなかった。しかし、出逢ったばかりの、しかも、たった一時間半一緒にいて写真を撮って貰ったばかりのカメラマンを忘れられなくなるなんて、自分でも信じられないことだ。
作品名:逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~ 作家名:東 めぐみ