逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~
彼の言葉に、萌は何も言えなかった。
―僕に写真を撮って欲しいと頼んだことを、その人に後悔させたくないんだ。
そのひと言は、萌の心の中に深く深く沈んでいった。
この時、萌は自分が恥ずかしいと思った。夫と二人の娘たちとの恵まれた生活を退屈だと思い、新しい何かを期待していた自分がとても浅はかだったように思えたのだ。
自分は一体、何をしたいと考え、何を誰に期待していたのか。
一枚の写真を撮るために、ここまで真摯に一人一人の客と向き合っているカメラマンがいる。仕事と割り切って、適当にこなせばそれで済むことなのに、彼はこの写真館を訪れるそれぞれの客を少しでも理解し、より自然な良い表情を引き出そうと日々、努力している。
萌はといえば、これまで何をしていたのだろう。平穏な日々を単調だ、退屈だと決めつけ、自分からそこに価値を見出そうとも、何かをしようともしなかった。
たとえ、どんな小さなことでも良い。夫や娘たちの弁当作りだって、もっと心を込めて家族の健康に気を配ることはできる。これまで萌はスーパーで買ってきた冷凍食品をレンジで温めて済ませてきた。今から思えば、我ながら何と適当なことをしていたのだろう。
些細なことだって、心を込めて当たれば、必ず努力しただけの成果は結果になって現れる。夫や娘たちのために、萌にできることはきっと他にもまだまだあるはずだ。
「何だか凄いですね」
萌の口から我知らず言葉が零れ落ちていた。
「えっ」
今度は男性の方が愕いたように萌を見る。
萌は淡く微笑した。
「自分の仕事にそれだけの誇りと責任感を持つって、なかなかできることじゃないと思います。私なんか、何をやっても適当にやっとけば良いやって感じで、考えてみれば、この頃、そんな風に一生懸命っていうか真摯に物事に向き合ったことがあるかなって反省しました」
「何だかそこまで褒められると、居たたまれなくなってしまうな」
彼は人懐っこい笑顔を浮かべ、心底から嬉しげに笑った。こういう笑い方をすると、いかにも大人の男といった整った顔立ちがまるで少年のように見える。
「ありがとうございました。今日、ここで写真を撮って貰って良かったです。ここに来て、お話を聞いている中に、良い加減な生き方をしてきた自分にやっと気付くことができたような気がします。どれだけできるか判らないけど、私ももっと真剣に生きてみようと思います」
萌はバッグから財布を出しながら言った。
「いやいや、お礼はこちらが言う方ですよ。萌ちゃんは、お客さまだから」
彼は笑いながら、萌から料金を受け取った。
萌は一歩脚を踏み出す。自分がもう、これ以上、ここにいる理由はない。だが、何故か、もう少しここにいて、彼と話していたいと思う自分がいた。
「あの―」
萌は振り返り、男性を見た。
「私、この写真館の前をよく通りかかるんです。いつもは年配の方を見かけることが多いんですけど」
それは嘘ではない。日常の買い物―食材や衣料品は近くのスーパーで済ませるが、少し改まったスーツなど、高級品を物色するには、やはり百貨店でなければならない。中元・歳暮などの贈答品もしかりで、デパートの方へゆくため、駅前まで出てくることは比較的多い。
駅前のデパートに行くときは、必ずこの道を通るのだ。萌はこの建物の前の舗道を箒で掃いている主人らしい人を何度か見かけたことがあった。
萌の言葉に、彼はまた気さくな笑顔を浮かべた。
「ああ、伯父さんのことかな」
「伯父さん―」
「きっと萌ちゃんが見たのは僕の伯父だと思うよ」
彼はそう言うと、〝あっ、そうか〟と小さく呟いた。
「萌ちゃんの名前だけ訊いて、自分は名乗ってないもんなぁ」
頭をかきながら上着の内ポケットから名刺入れを取り出している。
「これを良かったら、どうぞ」
差し出された名刺には〝カメラマン 田所祐一郎〟と印字されていた。名前の下に携帯電話の番号と生年月日も添えられている。
〝一九七十年二月六日〟生まれということは、六十六年生まれの萌より四歳下という計算になる。端整でほどほどの甘さを持つルックスは見ようによっては若くも見え、また、逆にクールすぎるほどクールにも見える。
今で言う〝美男(イケメン)〟であるのは間違いないし、その上、物腰も穏やかで人を逸らさない話術の持ち主とくれば、さぞや女性にモテるだろう。―などと、萌は余計なことまで考えてしまう。
「祐一郎―さん」
萌は小さく声に出してみる。
「ここの写真館のオーナーは僕の伯父なんだ。僕の母が伯父さんの妹でね。伯父さんには小さい頃から息子のように可愛がって貰って、プロのカメラマンに憧れてたからかな、この道に入ったのは。伯父さんの影響が大きいだろうね」
やっと名前が判った途端、もう別離のときが迫っている。
「色々とお世話になりました」
萌がもう一度頭を下げると、祐一郎は律儀に自分もお辞儀する。
「こちらこそ、良い勉強をさせて貰いました。ありがとうございます」
萌は何となく後ろ髪を引かれる想いで写真館を後にした。曇りガラスの扉を開けた時、雨は完全に止んでいた。
まだグレーの雲が帯のように幾重にも空を覆ってはいるものの、雲間からは時折、薄い紗のように弱々しい光が差し込んでいる。舗道沿いの紫陽花の花びらの上で雨滴が煌めき、その一つ一つの小さな花びらは、まるで、ひと粒の真珠を澄んだ水底に落としたようだ。
腕時計を見ると、時計の針は二時十分を指している。かれこれ一時間半、その写真館にいたことになる。その時間が長かったようにも呆気なかったようにも思えるのは何故だろう。そろそろ下の娘が小学校から帰る頃だと、萌は急ぎ足で帰り道を辿り始めた。
祐一郎と出逢った次の日は土曜日だった。
萌は二人の娘たちを連れて同じR市内にある実家を訪ねた。夫の史彦の運転するスカイラインの助手席には萌が座り、後部座席に二人の娘が陣取る。長女の萬(ま)里(り)は小学五年、次女の芽(め)里(り)は小学校二年だ。二人共に父親似で、史彦はこの娘たちには眼がない。といっても、無闇に甘やかせるのではなく、叱るときはきちんと叱るし、けじめはつけている。
萌の両親は、どちらも六十代後半だ。一人っ子だったせいで、萌は小さいときから大切にして貰ったと自分でも思う。父は、どちらかといえば史彦に似たタイプで、謹厳実直を地でゆくような地方公務員だった。今は退職して母と二人で時々温泉旅行に出かけたり、趣味のゴルフを楽しんだりと老後をそれなりに過ごしている。
母もまた典型的な専業主婦で、父の言葉に真っ向から逆らったのを見たことがない。もっとも父は融通のきかないところはあるが、理屈に合わないことはけして言わなかったし、無理を通そうとしたこともなかった。家庭は平和そのもので、両親が声を荒げて喧嘩しているのなど、子ども心にも現在に至るまでにも一度も記憶にない。
要するに、萌の人生は生まれたそのときから、今と変わらず平穏そのものだった。一人娘であった萌を嫁に出すときの条件として父がたった一つ史彦に示したのが、月に一度は孫を連れて夫婦揃って顔を見せにくることだった。
作品名:逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~ 作家名:東 めぐみ