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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

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 家に帰れば、自分には夫も二人の娘もいるのだからと、半ば言い訳のように自分に言い聞かせてみる。それでも、まるで砂を噛んだような味気なさと、心が空っぽになったような寂寥感は止めようがない。
 狭い舗道沿いに縦長のフラワーポットが一つ、ぽつんと忘れ去られたように置かれている。純白の紫陽花が数本群れ咲いているのが、眼にも鮮やかだ。雨にしっとりと濡れた雪(ス)のように(ノウ)真っ白(クリスタル)な紫陽花は六月(ジユーン)の花嫁(ブライド)のように清楚かつ艶やかだ。紫陽花は小さな煉瓦造りの写真館同様、周囲のビル群からは浮いていたものの、このお伽話めいた建物とは実にしっくりと馴染んでいた。
 雨は止むどころか、次第に烈しくなり、まるで強いシャワーを地面に叩きつけているようだ。これは困った、しばらく動けそうにもないと萌は内心、途方に暮れた。
 周囲を雨に閉ざされ、眼前のビルは雨に霞んでいる。あたかも自分とこの写真館しかこの世にはないのだとさえ―そんな現実離れした気分にもなってくる。慎ましく開く紫陽花が強い雨に打たれ、泣いているように見えた。
 萌が紫陽花に見入っていたその時、頭上から声が降ってきた。萌は百五十五センチと小柄だ。どうやら、相手は自分よりは頭一つ分以上の身長があるらしい。まさに声が真上から降ってきた―という形容がふさわしかった。
「あれ? こんな酷い雨なのに、誰かいると思ったら―」
 萌は眼をまたたかせた。萌から見れば、〝見上げる〟という格好になってしまう。萌の視線の先には、上背のある男性が立っていた。身長は、ゆうに百八十近くはあるだろう。染めているのか、さらさらとした茶色の髪に、理知的な瞳。ふと萌の脳裡にテレビでよく見かける狂言役者の野村萬斎の顔が浮かぶ。この男の端整で細面な容貌は、何とはなしに野村萬斎似のような気がした。
 萌葱色のポロシャツにカーキ色のズボン、上に羽織った麻のブレザーはアイボリーだ。都会的で洗練された雰囲気のファッションがよく似合っている。それも作り込んだわざとらしさではなく、さりげなく着こなしているところが本当にお洒落上手なのだろうと思わせる。
 男性は写真館の人なのだろうか。あまりにも烈しい雨に、表まで様子を見にきたらしい。
「あっ、わ、私」
 萌は狼狽えて口を開きかけ、自分が何も言うべき言葉を持たないのに気付く。後から思えば、雨宿りをさせて貰っていたのだとただひと言告げれば良かったのに、萌の口をついて出てきたのは自分でも予期せぬ科白だった。
「証明写真を撮りたいんです、ここで撮って貰えますか?」
 何故、あんなことを言ってしまったのか判らない。でも、その数秒後、萌はとにかく、その野村萬斎似の男と共に写真館の中にいた。
 その日、萌は駅前のデパートまで中元を手配しに出かけた帰り道だった。夫の仕事柄、中元を贈らねばならない相手はたくさんいる。その他にも、栃木にいる夫の両親、更には同じR市内に住む萌の実家、親戚と数え上げれば枚挙に暇がない。予め、そういった義理のある付き合いの欠かせない相手の名をメモにリストアップしておき、デパートでそれぞれにふさわしい品を選び配送まで頼んでおくのだ。
 その帰り道に偶然飛び込んだ写真館で証明写真を撮って貰うことになるとは流石に想像もしなかった。もしかしたら、萌はその時―彼をひとめ見た瞬間から、惹かれてしまったのかもしれない。だから、咄嗟に証明写真を撮りたいだなんて口走ってしまったのだろう。
 建物の中は、見かけよりは意外と広々としていた。写真館にはよく見かけるように、奥がちょっとしたスペースでスタジオ写真が撮れるような造りになっている。その手前にカウンターと思しき台、更に少し離れた場所に小さなガラス張りのテーブルとソファがあった。ソファの脇に鉢植えの観葉植物が置いてある。萌は見るともなしに鮮やかなその緑を眺めていた。
 萌がソファに座って待っている間、彼は手慣れた様子で撮影の準備をしている。
「はい、お待たせしました」
 男性がよく通る声で叫び、撮影が始まった。とはいえ、証明写真なので、すぐに終わる。それでも、萌には随分長い時間のように思われた。
「あれー、顔が硬いですよ」
 カメラの向こうから、ファインダー越しに男性が語りかける。
 証明写真なんだから、表情など、どうでも良いのではないか。一瞬思ったけれど、むろん、口にはしない。
 世間一般でも、証明写真は何か強ばった―引きつった顔で固まって映るのが相場と決まっている。いつだったか、萌がまだ高校生の頃、大学受験用に撮った証明写真を見て、まるで指名手配犯のようだとショックを受けたことがある。
 萌はできるだけ口角を笑みの形に引き上げる。
 と、今度は男性が片手を上げ、ひららと振った。
「うん、少しは良くなったけど、まだまだだな。お客さん、名前は?」
 は、と、萌は思わず声を出しそうになる。何で名前を訊くの? と思いながらも、問われるままに〝神崎萌〟と応えていた。
「じゃあ、萌さん―、いや、萌ちゃんでも良いか。萌ちゃんの好きな花は何?」
 またまた思いがけない質問が飛んでくる。それにしても〝萌ちゃん〟だなんて、夫からでさえ一度も呼ばれたことがない。いきなり〝ちゃんづけ〟で呼ばれて少し退きそうになったものの、何故か悪い気はしなかった。
 〝萌ちゃん、萌ちゃん〟と呼ばれていると、まるでこの男とずっと昔から知り合いだったような気までしてくるから不思議だ。
「紫陽花」
 これも衝動的に口から出た言葉だった。萌は特にどの花が好きだとか思ったことはない。花はキレイだと思うし、嫌いではないけれど、特にどの花が良いという拘りはなかった。その時、咄嗟に紫陽花と口走ってしまったのは、やはり写真館の前で見た紫陽花の印象が強かったからに違いない。
「ああ、良いね。紫陽花、丁度、今の季節にぴったりだもんね。僕も紫陽花は好きな花の中に入るかな。僕は子どもの頃から、梅雨が大嫌いでねー、小学生から野球やってたから、練習できなくなるでしょ、雨だと。あれが嫌だったんだ。勉強が嫌いで、家の中でじっとしてるのがとにかく苦手な子だったもんで」
 その悪戯っぽい笑みに思わずこちらまでクスリと笑いが零れる。
 刹那、シャッター音が響き、閃光が眼の前で光った。
「あっ、今の表情はとても良かったよ」
 そのひと言で、彼が萌をリラックスさせるために、わざと先刻の話をしたのだと判る。
「その頃から、雨は嫌いだったけど、紫陽花は好きだったな。何かねえ、ホッとするんだよね。ずうっと雨続きの風景の中で、紫陽花が咲いてると、そこだけパッと華やかに見えるでしょう。そういうところが好きなのかな」
「判ります、それ。私も梅雨は苦手だけど、紫陽花は好きだもの」
 萌が勢い込んで応えたその時、またフラッシュが続いて二、三回瞬く。
「段々と顔が明るくなってきたよ。表情がやわらかくなってきたね」
 男性の声も心なしか弾んでいる。そんな和やかで愉しいやりとりが続く中に、撮影は終わった。元々、証明写真なので、さほどに時間はかからないのだ。