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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

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ひとめ惚れ、片想い。世の中には恋愛に関しての言葉があり余るほど溢れている。でも、自分がそんな体験をするなんて、そのときまで、私は考えたこともなかった。
 いや、私の場合、この突然降ってきた恋は、実をいうと、恋とも呼べないようなものだった。何しろ、今でさえ、相手は私が彼に抱(いだ)いていた想いを知りさえしないのだから。―もっとはっきり言ってしまえば、彼の記憶の中に、私という存在がたとえ片鱗でも、残っているかどうかも疑わしい。
 だから、私は、この話は誰にもしたことがない。できるはずがないではないか、たった一度逢っただけの男性にたった一瞬で心奪われてしまっただなどと、幾ら私でも恥ずかしくて他人(ひと)に話しようがない。ましてや、相手が私のことを憶えてさえいないかもしれないというのに。
 けれど、この〝恋〟の話を誰にも話さないで、ずっと心にしまい込んでおくのも苦しい。話せないけれど、誰かに聞いて欲しい。そんな体験談の一つや二つ、きっと誰にでもあるだろう。

 

 突然降り出した雨に、萌(もえ)は慌てて駆け出した。家を出る間際、傘を持っていこうかどうかと一瞬迷ったものの、結局持ってこなかったことを後悔してみても始まらない。いつも、そうだ。萌の人生は、こんなことの繰り返し。朝から曇り空がひろがっている日、傘を持って出かければ、何故か昼過ぎ辺りから薄陽が差し始め、やがて嘘のような晴れ間になる。
 裏腹に、朝はからりと晴れた上天気なのに、傘を持たずに出かければ、突如として土砂降りに遭ったり―。
 まあ、人生なんて、そんなものだとは諦めている。商店街の抽選籤でも最下等のポケットティッシュしか当たった試しはないし、くじ運どころか、〝ラッキー〟という言葉は自分の人生の辞書には載っていないのではないか。そう思えるほど、萌のこれまでの人生は平々凡々としていた。
 しかし、不満を持つのは、それこそ罰当たりというものだろう。女子大英文科を卒業後、平凡なOLを六年間経験し、最初の見合いであっさりとまとまり、二十八歳で結婚というのは現在では、さほど遅くはない。六年もいた会社は事務機器を取り扱うメーカーだったが、事務職の萌はたいした業績も上げず活躍もしなかった代わりに、辞めさせられるようなヘマもなかった。
 見合いで結婚した夫は六つ上で、お世辞にも今風のイケメンではないが、真面目がスーツを着たという典型的なサラリーマンだ。今の二十代では、こういうタイプは珍しくなりつつあるかもしれない。
 普段から全く冗談の通じない夫は冗談を言おうとしても、それがいわゆる〝親父ギャグ〟になる。一応、社内ではそれなりに認められているやり手の営業マンで通っていて、営業部長の肩書きを持っている。
 夫が職場の部下一同をいつもの親父ギャグで寒くさせているのではないかと、萌は時々心配している。夫といて心が躍るようなときめきを感じたことは一度もないが、かといって、一緒にいるのが嫌というわけでもない。夫の会社は業界ではそこそこ名の知れた自動車メーカーであり、無趣味で休日は家で寝ているのが趣味のような夫の唯一のこだわりといえば、やはり車だろう。
 職業柄というヤツだろうが、夫はおよそ似つかわしくないスポーツカーに乗っている。しかも、ミッドナイトブルーだ。その愛車をピカピカに磨き上げるのが生き甲斐で、休みにたまにどこかに出かけたかと思えば、近くのガソリンスタンドで一時間以上もかけて愛車を磨いてくる。
 夫にとって愛車と同じくらい大切なのが家族で、大切な車に大切な家族、つまり萌や子どもたちを乗せて走るのが夫の幸せなのだ。
 これだけ言えば、萌自身が彼女の人生に〝ラッキー〟という文字がないと訴えることがどれほど贅沢であるか、我が儘であるかと誰もが口を揃えて言うだろう。
 実際、萌は幸せなのかもしれない。いや、幸せなのだ。面白みはないが、誠実で穏やかで働き者の夫と可愛い二人の娘たちに囲まれて、萌の毎日はめまぐるしく過ぎてゆく。夫や二人の娘の弁当作りで一日が始まり、子どもたちが小学校から帰ってくるまでは家で一人。家事を済ませてしまえば、実際のところ、何もすることはない。
 まだ数年のローンを残している家は、建て売り住宅を見に行ってそのまま契約した物件で、けして立派なものではない。部屋数も知れている。何を思ったか、いつも何事も即断しない夫がそのときだけは、今の家を見て、その場で決めたのである。もっとも、夫が気に入った最大の理由は、最寄りの駅から徒歩十分というところらしい。娘たちの通う小学校からも近いし、周囲は閑静な住宅街であったことから、萌も特に異を唱える必要はなかった。
 幸せなんだけれども、どこかで物足りなさを感じている。多分、そんな贅沢な悩みを持っているのは、萌だけではないのだろう。あまりにも平凡すぎる毎日が続くと、この先、自分はこのまま歳を重ねて気が付けば、年老いているのではないか―、なんて想像しただけで怖ろしくなってしまう。
 恵まれてはいても、何も残っていない人生。子どもたちはいつか巣立ち、萌の傍からいなくなってしまう。一体、萌がこの世に生まれてきて成し遂げたことは何なのか。平凡は悪いことではない。むしろ、何も憂慮すべきことが起こらず、穏やかな日常が続いてゆくことこそが望ましい。頭では判っていても、心のどこかで〝そんなのはごめんだ〟と何かが起こるのを期待している自分がいる。
 だが、今年四十歳になった萌に、今更、人生を覆すほどの出来事が起こりうるはずもないのだ。
 萌は思いきり盛大な溜息をつく。急な雨で咄嗟に駆け込んだ軒先で、つい物想いに耽ってしまった。改めて背後を振り返る。そこが何なのかろくに確かめもしないで飛び込んだのだ。
 煉瓦造りのちょっとお洒落な建物には蔦が絡んでいて、童話か何かに出てくるような雰囲気だ。その正面に小さな立て看板があって、〝樋口写真館〟と記されている。
 この建物の前は、しょっちゅう通る。どこか周囲のビルとはアンバランスな印象を受けてしまうが、萌はこのノスタルジックな小さな建物が嫌いではなかった。むしろ、良い意味で気になっていたといえる。
 が、この建物が写真館だったとは、ついぞ知らなかった。ここは萌の自宅から少しだけ離れている。夫がいつも利用する私鉄線の最寄り駅近くに位置する。萌が暮らすR市は、そこそこ発展している地方都市で、R駅周辺はオフィスの入ったビルが目立つ。写真館はその一角にひっそりと建っているのだ。
 現に、萌が今立っている場所から、大通りを挟んで林立する高層ビルが見える。忙しなさそうに萌の前を行き交う人々は、萌などには眼もくれない。萌は一瞬、自分と周囲の世界がガラスの壁で隔てられているような錯覚を憶えた。誰もが当人以外の存在には関心も示さず、ただ憑かれたように前方だけを見て足早に通り過ぎてゆく。
 中には突然降り出した雨に悲鳴を上げながら、それでも嬉しげに手を繋ぎ二人で駆け抜けてゆく若いカップルもいる。
 いずれにしても、萌だけがこの広い世界の誰からも何者からも見放されているような―そんな気分になった。