カフェ・サニーディサンデー
週に一度だけのバイトでは生活の足しにもあまりならず、ひなたがこの店でバイトをしているのはこの店自体が好きなこと、そして彼女が十は年上のマスターに対して抱いている好意が理由だ。労働というよりはほとんど趣味のようなもので、この店のほかに引越し屋や家庭教師を掛け持ちし、生活費を稼いでいる。学費の安い国立大学とはいえ実家から遠く離れた都市圏で一人暮らしというのは、弟妹の多い長女である彼女にとってはかなりの贅沢だ。家賃は親が全額出してくれている他、農家である実家から頻繁に食料は送られてくるが、基本的に生活費は自力で稼ぎ、学費は奨学金でというのが進学の条件だった。とはいえあまり大金は出せないと言われただけで、浪人もさせてもらえたし家に金を入れろだの進学せずに働けだの言われなかっただけ恵まれていると彼女は思っている。学生の客が多いとはいえこの店の食べ物や飲み物の値段はファストフード店やファミレスなどと比べると安くはないから、アルバイトという名目でお金をかけずに入り浸れるだけで、ひなたにとっては十分だった。正直給料も出なくてもいいとも思っているが、ボランティアというのも妙なものだし、やはりバイトという立場が一番自然なのだろうと思う。
こんな風に客が途切れたりしたときに、マスターは今食べているかき氷のように、ちょっとしたものをひなたに振舞ってくれることがよくある。それはひなたがマスターに恋をするよりも前から好きで来るたび飲んでいた珈琲であったり、その日のうちに食べないといけない売れ残ったケーキだったり、新製品の試作品だったり、またはたまたま忙しい時間が続いた後だったりすると、純粋に労いの意を込めてひなたのために特別仕様の大きなパフェを作ってくれたりすることもある。それはとても嬉しいのだけれど、ますますもってバイト代をもらうのが申し訳なくなってしまう。
不意に風が流れ込んで、ひなたははっと顔を上げた。扇風機の騒音のせいで気がつかなかったが、ドアが開いてふたりの若者が入ってくる。慌てて体勢を整えていらっしゃいませ、と言うと、二人組のうち小柄で眼鏡を掛けた方が「あー涼し……くない!」と顔を歪めた。
「なにこれ、エアコン切ってんの? 節電? あー、なんかふたりともいいもの食べてんじゃん。ねえ俺たちにもそれお願いしまーす。俺カルピスね」
カウンター席に腰掛けながら、それが正式メニューかも確認せずに、からからと笑いながら注文する。隣に座った大柄な青年に、お前はブルーハワイだよな、と話しかけると、彼はおっとりとした様子で頷いた。
彼らはひなたが店員となった今サニーディサンデー一番の常連で、そして数少ない店内で何も気にせずおしゃべりをしていく人々だ。別に大声ではないので構わないのだが、お一人様がほとんどを占める常連客の中では珍しい。ほぼ必ず二人でやってきてはカウンター席に座り、時にはマスターやひなたにも話しかけながら、二時間ほどおしゃべりをして帰っていくことが多い。ふたりは高校の同級生だそうで、小柄で黒縁眼鏡でより賑やかなほうは大学生でひなたと同じ学部の三年生、大柄で穏やかで落ち着いた雰囲気の男は、この春専門学校を卒業して福祉系の仕事に就いているらしいが、そちらの業界に明るくないひなたにはよくわからない。専門学校が二年制だそうだから、一浪二年生であるひなたと彼らふたりは同い年なのだろう。ただ、大学という社会は生まれ年がどうあろうが入学年度によって同期、先輩或いは後輩となるので、ひなたにとって小柄な男は先輩というカテゴリに入っており、彼の同級生である大柄な男もそれにつられてなんとなく目上のような気がしている。
ひなたがかき氷を食べ終わるより前に、ひなたの半分の量をさっさと食べ終えたマスターが彼らの分のかき氷を用意してカウンターに置くと、小柄な青年はぱっと目を輝かせた。一口食べて目を細め、嬉しそうにああ最高と呟く。
「三十度超えたらやっぱアイスよりかき氷だよなー。なんてーの、アイスよりこう、きぃーんって一気に冷える感じがする」
「そうだね。二十五度超えたら、いくら美味しくてもあんまりハーゲンダッツって気分じゃないかも」
たとえ三十度を超えても、ハーゲンダッツはいつだって美味しい。むしろハーゲンダッツなんて大学進学以来一度も口にした覚えがない。そんな侘しい思考をおくびにも出さずに、ひなたは半分水混じりとなった最後の一口を飲み込んだ。
「どっちかってっとガリガリ君とかアイスボックスだよな。暑いときにはほんとたまんない」
「疲れてるときもね。例えばこの炎天下で思いっきり全力疾走して汗かいたあととか」
大柄な男が穏やかな笑みを崩さないまま何気なく言うと、小柄な男はうっと唸って言葉を詰まらせた。
「……今度はどうしたの?」
呆れたようにマスターが尋ねると、小柄な男はなんともわかりやすく目を逸らす。毎回ではないが、わりといつものことだ。彼の代わりに口を開くのは相方のほうで、これもまたいつものことである。
「三ヶ月前の例の彼女に潜伏先を突き止められました」
「ていうと、例のゴスロリヤンデレメイドちゃんですか?」
記憶を辿りながらひなたが言うと、小柄な男は頭を抱えて呻き声を上げ、大柄な男が相変わらずにこにこと笑ったまま頷く。潜伏先、というのは恐らく現時点での彼の恋人の家だろう。三ヶ月前に件の相手とトラブルを起こして家まで押しかけられて危うく刃傷沙汰になりかけて家族を危険に晒してしまってからというもの、彼女とのことが完全にけりがつくまで帰ってくるなと実家から叩き出されてしまっているらしい。
「で、家主さんと鉢合わせしちゃって危うく修羅場りかけて逃げてきたんですが、もう帰れないでしょうね、いろんな意味で」
「…………どうしていっつもこうなるんだろうなぁ」
一言呟いてかき氷を口の中に放り込む。スプーンが氷の山に差されるしゃり、という音と同時に盛大に携帯が鳴り響き、ほとんど飛び上がるようにして画面を確認した彼の顔色がみるみる青褪めていく。
「エアコン壊れてるのになんか急に涼しくなってきたね」
「いっそ寒気がしませんか?」
店員コンビがそんなやりとりをしていると、僅かに涙目になりながら彼はふたりを睨んだ。その間も携帯電話は鳴り続けている。人気の最新式のスマートホンだ。
「そういえば君、パソコンあの人に壊されちゃって、今家主さんのノート使わせてもらってるって言ってたよね」
「ああ、うん」
「その携帯の母艦もそのパソコン?」
「そうだけど、それがどうしたの?」
相変わらず鳴り続ける着信音。どうして今そんなことを気にするのか、と怪訝な顔をしてみれば、大柄な男は少しだけ困った顔で告げた。
「だったらそのパソコンあの人に盗み出されるか家主さんと協力されるかしてたら、GPSで携帯の位置わかるよね。ちゃんとパスワードかけてた?」
「!」
途端に立ち上がり、未だ鳴り止まぬ携帯電話を掴みあげたその手を大柄な男が掴んでやんわりと制する。
「だめだよ、壊しちゃ。もし探されてたとして、いきなりここでGPSオフにしたら、ここにいるってばれちゃうでしょ。みんなにも迷惑かかっちゃう。ここで待ってて。おれが囮になってあげるから」
「え?」
作品名:カフェ・サニーディサンデー 作家名:なつきすい