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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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カフェ・サニーディサンデー

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 体格がいいから、力が強いから、ただそれだけの理由で自分を柔道部の助っ人に借り出した友人に、今だけは感謝したい。彼女は人体の急所やら技のかけ方やら、日頃のひなたが覚える必要のない知識と技術を提供してくれた。ただ、たとえば痴漢や変質者に襲われたとき以外に、面白半分で試してはいけない、とも。どんなものでも、知っていて無駄ということはないのだな、と、こんな状況にも関わらずひなたの頭の一部はのんびりと考える。
「ひなたちゃ」
 おびえた声で自分を呼ぶ、その名を最後まで呼ばせることはなかった。やがてそれはくぐもった呻きに変わり、誰にも見えないまま、暗い地面へとしゃがみこんだ。
彼はつくづく女難の気があるようである。


「…………あれ?」
「気がつきましたか?」
真っ白な地下室の、ベッドの上、目覚めた彼にひなたは看護師を思わせる穏やかな表情で、微笑みかけた。
青年は上体を起こしながら、まだ自分の状況がわかっていないのだろう、大きな形の良い目を瞬かせる。
「大丈夫ですか? 階段の下に転がってたから、びっくりしました」
「……階段?」
思い出されてしまう前に、しれり、笑顔で出まかせを口にする。
「はい、昇ろうとして転んじゃったんですか?」
 笑顔を貼り付けたまま言うと、彼はやや首を傾げながら、怪訝そうな表情をそのかわいい顔に浮かべた。
「その割には頭は痛くないけど」
「じゃあきっと違うところを打ったんですね」
 押し切れ、もう勢いで押し切れ。どんなに言っていることに無理があろうとも。彼の顔には疑問符が盛大に浮かんでいるが、こちらの微笑みは崩さない。
「あのさ」
「はい」
「……お店、やってるでしょ?」
「お休みですよ」
 さらり、自分はそんなに嘘がうまい人間ではなかったはずなのに、脳みその普段使わない部分がフル回転しているかのように、勢い任せのでまかせが次から次へとあふれ出る。
「でも、なんかいい匂いしない?」
「マスターがあたしとあなたのためにお昼ご飯を作ってくれたじゃないですか。それに、この建物も長いですから、もうお店自体にいい匂いがしみついているんですよ」
 これは、ほとんど事実。この店は、マスターが先代の主人から受け継いだものだと聞いている。先代の時代も含めれば、マスターが生まれるよりも前からこの店は続いているのだと。
「……あのさ、ひなたちゃん」
「はい」
「さっき、僕にすごくそっくりなお客さん、来てなかった?」
「いえ?」
 間髪を入れず、表情も変えずにひなたは答えた。それでも納得のいかない様子で、「なんかカウンターに、僕とあいつにすごくそっくりっていうか、ドッペルゲンガー? そんなのいた気がするんだけど」と、彼にしては低い声で呟く、「僕近いうち死ぬのかなぁ」と。
「夢ですよ。だって実際、今日はお休みですし、あなたはこの部屋から出てないですよ」
「でも」
「たぶん、こういうことが続いているから、あなた疲れているんですよ。休暇を取ったらどうですか?」
「休暇……といえば休暇みたいなもんだけどさぁ」
 なんか、それにしてはやけにリアルだったんだよなぁ、と彼はぼやいた。
「よくありますよ。あたしだって、触覚とか味覚とかわかる夢結構見るし」
「僕はわりと夢が白黒だったりするほうなんだけど」
「今は特殊な状況ですから、ね?」
 押し通せ、さもなければ、また落とせ。
 そんな不穏な空気を察したのか、何か開きかけた口を、彼はぐっと噤んだ。普段からこの危機管理能力を発揮できればいいのに、とは思うけれど、少なくともひなたの知っている方の彼については、女性絡み以外のトラブルに巻き込まれた話は聞いたことがないので、それなりには発揮しているのだろう。
「でも、休みなら尚更さ」
 一瞬だけ目をそらした後、もう一度ひなたの目をしっかりと見て、彼はにやりと笑った。
「ひなたちゃんがこんなに献身的なの、マスターも気付いてもいいのにね」
 マスターに言うか、勤務日誌に残すかして、外側から鍵をかけてもらおう。
 顔は貼り付けた能面の笑顔のまま、ひなたは彼にもう一度思いきり習いたての技をかけたい衝動をかみ殺した。


 それから、一週間後、次の日曜日。
「ま、そんなわけで彼は無事に自宅に戻ったから」
 マスターからの報告、及びあの彼を知るひなたの日誌の記述に、ひなたはほっと息を吐き出した。
 よかったです、その言葉は彼が無事に戻ったことに対してか、それとももうあの普段だとありえないところまで気をまわさなくて済むことに対してか。普段、彼が何に巻き込まれて割と平然と対処している彼の相方であるところの長身の彼も、一週間音信不通ということもあって、再会した時には今までにないほどほっとした表情を見せたのだという。
「結局、ばれなかったんですよね?」
 聞くと、マスターは頷いた。
「ただ、きみの後にも三回ぐらいいろいろあって、みんなが頑張って誤魔化してれたんだけど、まあ誤魔化せたみたいだよ」
「………………」
 本当、懲りないひとだと思う。ありとあらゆる意味で。彼の学習能力はとにかく女性に対しては発揮される気配がないのだが、それはひなたに対しても同様なのだろうか。少なくとも、あの彼にとってひなたは守備範囲外らしいけれど、それでも女性には違いない。
 あんなに、見事にひとの思いを言い当ててみせたというのに。たぶんマスターには気づかれていないはずのこの思いを。それなのになぜ、自分の身に危険が及びそうな部分については鈍いのだろうか。逆のほうがいいような気がするけれど。
「例の彼女さんも、吹っ切って、いっそ政略結婚の相手と幸せになれたら良いですね」
「そうだね。実際なにが幸せなのかって、本人にしかわからないし本人にもきっと、なってみるまでわからないものだしね」
 マスターの言葉に、ひなたは深くうなずいた。例の彼にしたって、その相方であるところの彼にしたって、おそらくはひなたの常識の範囲の外で、幸せであるらしいのだ。理解できるものではないけれど。
(あたしの)
 ふと、ひなたは考える。
(あたしの、幸せってなんなんだろうな)
 意識したことはない。ただ少なくとも、悪い男に騙され弄ばれ貢がされた挙句捨てられたあのときは、幸せではなかったはずだ。あっさり捨てられて良かったとも思っている。あんなのと長い付き合いになったところでろくなことはない。もっとも、初めから付き合わないでいられたのなら、もっとよかったのだろうけれど。
 ただ、彼と出会わなければ、それでこの店で酔いつぶれるという失態を晒さなければ、今のこの状況はない。
 この店のただの常連客で終わっていた「現在」を、もうひなたは思い描くことができないでいる。
 ただの、日曜日にしかやってない風変わりなカフェとだけ思いながら、ぼんやりとこの場所で客として過ごす。マスターの秘密も、この店のことも、なにひとつ知らないままに。そんな「あったかもしれない現在」は、もうひなたの想像力の外のことだ。
 自分にとっての幸せ。その意味を、ひなたはもう一度考える。今現在の先の未来として思い描ける、幸せ。
(マスターと付き合う、とか?)