カフェ・サニーディサンデー
料理ベタ、と言われる要因には三種類あると、ひなたは考える。手際が悪い人と、味覚が悪い人と、化学と生物が本質的に苦手な人。そしてその混合型だ。この彼の今の恋人は、見事にこの三要素をすべて備えているらしい。つまりは見た目はぐちゃぐちゃで焦げる、煮過ぎる、或いは生焼けが基本、味付けや匂いはそれを人間の食べ物であると認識することすら難しく、そして混ぜるな危険、或いは食べたら致死的な量の何かが大量に投入されていることも珍しくはないらしい。実際、彼女と付き合い始めてから、彼はひなたの目から見ても明らかにやつれた。一年も付き合えばきっと彼は若い命を終えるだろう。頭痛の時に薬を飲もうとしたら、自販機で缶珈琲を買ってくれたそうだ。
「ひなたちゃんはどうしたの? なんだか疲れた顔して」
小柄な彼は首を傾げつつ尋ねる。そんな自覚はなかったのでそうですか、と言えば、彼はこくりと頷いた。
「見ればわかるよ。なんかげんなりした表情してるもん」
そうなのだろうか。原因があるとすればもうひとりの例の彼のことぐらいしか思いつかないけれど。しかし女の子の様子や表情を読み取ることにかけては天下一品の彼が言うなら、そうなのだろう。
「ごめんなさい。カフェの店員が疲れた顔してたんじゃ、だめですよね」
できる限りの営業スマイルでひなたは笑い、頭を仕事モードに切り替えようとする。
言われてみれば、確かに精神的に疲れた。労働的にはイレギュラーは朝イチでカツラを買いに行ったぐらいのものだけれど、このカフェ以外では決して起こりえないだろう妙ちきりんな状況に加え、し慣れていない恋バナらしきものをうっかりしてしまったせいもあろう。なんせ子供の頃には体格の良さと馬鹿力で「男女」と今時ありえないある意味古風な呼ばれ方をされ、同級生の女の子たちからもどちらかというと男子に近い扱いを受けていたのだ。女の子、として扱ってもらったこと自体が希少な体験だったりする。しかしながら、かといってまったくときめいたりはしなかったけれど。
こういうときは、頭を空っぽにして働くに限る。気持ちを切り替えようとした、そのとき。
「そういえばひなたちゃん、髪伸びた?」
小柄な男のそんな言葉に、ひなたはびくりとして振り返った。
「いやさ、昨日きみ大学で見た気がして、急いでたから声かけそびれたんだけど、きみの髪短くしてあって珍しいなと思ったんだよね。ひなたちゃんといえばポニーテールのイメージあったからさ」
ああもう、どうしてこいつもあいつも、まぁ本質的に近い存在なのだろうけれど、女子に対してはこんなにも正確なセンサーを持っているのだろうか。夏休み期間中、しかも土曜日に大学なんて、滅多に行かないのに今週に限って。たまたま友達のサークルの助っ人に呼ばれていたのだ。
「見間違いだと思いますよ」
動揺を押し隠しながら、ひなたはにっこりと営業スマイルを浮かべてみせる。おれも見たけど、一日でこんなに髪が伸びるはずないですもんね、と長身の彼も言う。
「そんな速さで伸びたら、美容室代で破産しちゃいますよ」
「そうだよねえ。悔しいな、ひなたちゃんみたいな大きい子なんてそんなにいないし、俺女の子は見間違えたことないのに。……実はきみ、生き別れの双子の姉妹とかいたりしない?」
ええそうです、言う通りです。見間違いなんかじゃないんです。昨日あなたの見た短髪の女は間違いなくあたしです。
そして生き別れの双子の姉妹はいないけれど、自分ととてもよく似た誰かならいて、彼女になりすますための今のこの姿なんですよ。
そんな言葉たちを飲み込んで、ひなたは笑みを顔面に貼り付ける。
「まだ高校生の妹ならいるけど似てませんし地元ですよ」
笑って、だけど目は合わせない。そのまま何事もなかったかのように、空いたパフェの器とケーキの皿をカウンターへ下げ、ようとして。
カウンターの、座席側にいるはずの、彼と目があった。
瞬間移動?
ふと、そんなことを考えて、一瞬後になにが起きているのかを悟り、ひなたは笑顔のまま青褪めるという貴重な経験をする羽目になった。
ちらりと視線をずらせばマスターは調理の真っ最中、もう片目でカウンターを見遣れば、例の二人はふたりで向き合っておしゃべりを始めたところで、まだ、気がついてはいない。マスターはいいとしてお客ふたりに気付かれたら、いろいろと終わりだ。そしてこの状況を引き起こしている本人にも。
(ああもう! どうしてこう余計なことばっか!)
心の中の愚痴はそんなものでは済まず、店員としてあるまじき暴言の数々を珍しくも吐き散らしたい衝動に駆られたけれど、そんなことをしている余裕があったらその思考力を事態の改善に回した方が有益だと咄嗟に判断し、ひなたは視線だけを店内にぐるりと巡らせた。
一番まずいのは、地下室の彼だ。彼ととても近いひなたの知っている彼らの姿までは目に入らずとも、そもそも営業していることがバレること自体がもう既にまずい。続いて、カウンターで話している彼らだ。地下室の彼の姿を見せてはいけない、間違っても。マスターはどうでもいい。どうせ動揺しても、そんなには顔に出ないタイプだ。
さっと立ち位置をずらし、バックヤードの出入り口からカウンターの端っこ、彼らの定位置がひなたの影に隠れて見えなくなるポイントへ移動した。こんなときばかりは、普段はコンプレックスでしかない女にしてはがっちりして長身の体格がありがたい。地下室の彼の表情を確認する。
(まずいな)
なにを見たのかはわからない。けれど、絶対何かを見た顔をしている。ああもう、出かけているはずのマスターがいるのを見られただけならだいぶまし、営業中であることに気付かれていたならどうやって誤魔化すか、そしてもしも、鏡以上に自分と近い、彼を見られていたなら。
ポジションに気をつけながら、不自然にならないように移動を続ける。カウンター席の彼らからは、問題の人物は死角になる。マスターに一言、ちょっと裏行きますと声をかけ、返ってくるは、ああ、うんとの生返事。地下室からの階段に鍵を掛けておけばよかったかと思うけれど、それをやったら自分たちが彼を監禁しているようでいい気分はしないだろう。
もしもホラー映画だったら、主人公以外がこの表情を見せたら確実に死亡フラグ以外の何物でもないほどの驚愕を貼り付けたかわいい顔を至近距離の真正面でとらえた。自分を壁にして視界を遮り、にっこりと笑ってみせる。さぞや、怖いだろうとは思う。
「どうしたんですか?」
一歩、二歩。彼が後ずさった距離を詰めながら、店のバックヤードへと追いやっていく。もしも手にチェーンソーなりなんなりを持っていたとすれば、完全に今の自分の姿は連続殺人鬼のそれだ。ひっ、と、男性にしてはやや高めの澄んだ声で、小さな悲鳴が聞こえる。
「あ、ひなたちゃ、なんでお店、ていうか、あの、僕、僕が」
途切れ途切れの小さな声、おそらく店内の人々には聞こえないぐらいの。だけどその意味をひなたは正確に理解した。そして、取るべき行動が決まる。誤魔化そう、全力で誤魔化そう。彼の記憶という名の証拠の隠滅という手段で以って。
作品名:カフェ・サニーディサンデー 作家名:なつきすい