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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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カフェ・サニーディサンデー

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 その言葉の本当の意味を、そのときのひなたは知らなかった。
「ごめん、何度も起こしたんだけど」
「いえ、ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい、すぐ帰りますから」
 鞄の中から財布を取り出そうとする。泣き過ぎて涙が固まったせいか瞼がざらついて痛かった。少し視界がぼやけている。
「本当に急がなくていいんだよ。というか、急いでももう、どうにもならないし」
「……え?」
 もう、どうにもならない。その言葉に違和感を感じて、ひなたはマスターの顔を見た。そんなに深刻な話だろうか。果てしなく迷惑をかけていることは自覚があったけれど。
「上手く説明できないんだけど、……ちょっと、店の外を見てきてみて」
 促されるがまま、ひなたは立ち上がって玄関の扉を開けた。ここ数日止まない雨に湿気を含んでしまった扉は、ぎぃと普段よりも重たい音を立てながら開いていく。
 三月の後半から毎週通っている、漸く慣れた景色が広がる。――はずなのに。
 言葉を失った。酔いも眠気も一発で吹き飛んだ。逆に、まだ眠っていてこれは夢なのではないかと思ってしまうほどに。
 ざあざあと、降り止まない雨の音は耳に馴染んだもので、ひなたが知るものと寸分違いない。森が雨で濡れる匂いも。ただ、景色は、こんな町並みを、彼女は知らない。
「どこ、ここ」
 漸く搾り出した声は、掠れていた。指先が震える。
 知らない。見たことない。こんな景色。どこ、ともう一度繰り返した。
「ここは、ここだよ。うちの店の前」
 マスターが申し訳なさそうに、しかし淡々と口にする。
「だけど、君がいつも来てくれるこの店の前じゃ、ない」
 意味がわからない。眠っている間に拉致されたのか、などとも思ったけれど、それにしては今いる店はいつも知っている店と同じだ。カウンターについた傷や、染み込んだ珈琲の匂いまで、寸分違わず。
「店は、君が知ってる店なんだ」
「……お店が、動いている、てことですか」
 どこぞの足の生えた魔法使いの城じゃあるまいし。あれは動く城というより歩く城にしか見えないと昔から思っているけれど。
「多分、それが一番近いんだろうね」
 マスターはそう言って、息を吐いた。そして、君はSFは好きかな、と唐突な問いを発した。
「好きってほどではないです。有名なのを、ちょっと読んだことがあるぐらいで」
 それこそ、学校の図書館でも置いてあるような、例えばA.C.クラークだとか、夏への扉だとか。
「じゃあ、漫画は」
「それなりに読みますけど」
 質問の意図が読めずに、つい返す声が険しくなってしまった。迷惑をかけているのは間違いなく自分なのに。
「じゃあさ、並行世界とかパラレルワールドって概念は、知ってる?」
 ひなたはゆっくりと頷いた。小説では読んだことがないが、漫画で見たことがある。たとえば、よく似た、けれど違う別の世界、誰かがある選択をしたことで選択肢Aと選択肢Bをそれぞれ選んだ別の宇宙が発生する、だとか。詳しいことはよくわからない。だから。
「まぁ、そんなようなものだよ」
 そのマスターの言葉を上手く飲み込めずに、ひなたは呆然としたまま、マスターの顔を見つめた。開けっ放しの扉の向こうから、雨の音が耳をついた。
「ここは、君の知っている世界じゃない」
 マスターがエプロンのポケットから取り出し、ひなたに見せた携帯電話に書かれた日付は、確かにひなたの認識と相違ない。時刻も、深夜零時を回って十分ほど経ったところ。けれど、そこには確かに「日曜日」と表示されていた。


 このカフェには、日曜日しか存在しないのだという。
 時間は、確かに流れる。ひなたにとってのそれと同じリズムで。2010年の次には2011年が来たし、四月二日の次の日は四月三日だ。十日間常温で出しっぱなしにした牛乳は腐るし、プランターに植えたラディッシュは種まきから二十日ほどで食べ頃を迎え、店で出しているランチプレートを赤く彩る。
 それでも、何度夜を越えても、月曜日はやってこない。
 何百何千と続く日曜日を、マスターは生きているのだという。
 曜日、という概念は古代バビロニアで生まれたものだ。その暦がユダヤ人に受け継がれ、旧約聖書の創世記と絡められて広まり、現在では呼び方などの違いはあれど、七日で一回りする曜日の概念は広く用いられている。日本では明治時代以降に一般に広まった。
「『曜日』が始まった日が、一日ずつずれてる世界なんだと思う」
 マスターにも正確なことはわからないという。ただ、こんなことになったのはここ十年ほどのことであって、少なくとも生まれたときは、ちゃんと七つの曜日の回る、ひとつの世界に生きていたはずだそうだ。そして今、彼が七日で一周する七つの世界それぞれで育った記憶が、確かにあるのだという。
 それがいつからか、ひとつの世界に留まれるのは日曜日だけになった。七つの世界に七人いたはずの自分は、ひとりに繋がってしまった。そして月曜日から土曜日までの自分は、どこにも存在しなくなった。
「記憶は、全部思い出せるけれどちゃんとばらばらにあるんだ。だから、今君と話している僕は、さっきまでの僕と、少しだけ違うかもしれない」
 まだ呆然としたままのひなたに、マスターは告げた。
 嘘だ、そんなことあるわけないと思う。けれど、扉の向こうの景色は確かに違う。でもこんなことを信じるよりかは、この店の下に実は車輪がついていて、眠っている間に移動したのだと言われたり、まったく同じつくりの建物に連れてこられたのだと言われたほうがまだ信じられる。
「この世界にもね。君とよく似たお客さんがいるんだ」
 その言葉に、彼女は目をまん丸にした。
 曜日が始まった日が一日ずつずれている、という可能性の世界。その曜日によって生活が規定されるところであれば、その違いは大きくなるし、やがて歴史も変わる。日本は大陸から遠く孤立していて、旧約聖書を信じる文化圏からの影響が小さかったこと、それらの世界がどんな歴史を辿ろうと、ある程度以上の時間を経て技術を発展させなければ日本にはたどり着けないこと、それによって曜日によって生活が規定されるようになったのが遅かったことから、そのたどってきた歴史の差は西洋と比べると小さいらしい。或いは、七つどころではない無限の並行世界の中で、比較的歴史的経緯の近い七つの世界がたまたま繋がっただけなのかもしれないけれど。
 だから、多くはないけれど、いる。マスターのように、それら七つの可能性すべてに存在する人間が。ひなたもそうなのだという。
「たぶん、僕もそうだけど、たどってきた人生とか、そういうのは少し違うと思う。別の世界にはいない人の方が多いし。もしかしたら名前も違うかもしれない。だけど、極めて君に近い誰かはいる。……君の名前は?」
そういえば、名乗った覚えはなかった。他の世界にいるという、自分はどうなのだろうか。そして。それはどんな人なんだろう。
「あたしは、――――ひなたです」
まだ疑いは晴れないまま、けれど、こんなことで自分を騙してどうするのだろう、という気もする。動機がない。