山學記
朝霧は名刺を見詰めながら、重い足取りで家路を歩いた。気を紛らす為に打った礫は水の泡。また彼の心の中に雲が差し掛かった。――何故彼は自分の気持ちを見透かすかのように読み取ったのか。――何故根掘り葉掘り訊こうとしなかったのか。朝霧の頭上に疑問符が幾つも浮かぶ。だが一つ、設楽という男に二度と出くわさないよう、速やかに自らを殺めなくてはならない、そう頑なに誓っていた。医者なんかは金銭目的で、人の心の内をを全面に否定して、生きる価値のない人間を生かそうとするに違いない。だから、無駄ないざこざが起きる前に死ぬ覚悟を決めていた。そのせいか、彼の手は少し震えていた。動悸のような症状もあった。だが、彼の決心が揺るぐことはない。故に彼の足取りは家までずっと重いままであった。
時が過ぎるのは早く、素っ気ない。あっという間に陽は西に沈み、入れ替わるかのように月が昇っていた。月は雲に覆われていて、月光はとても淡く、窓枠を抜けてくることはない。電灯を消してるこの部屋からは、完全に明かりというものが消えていた。そして今宵、昨晩のあの光景と変わらず、全く同じ場所に設けられていた、全く同じ物が。
朝霧は踏み台に上る。足は小刻みに震え、そこを汗が伝う。手で掴んでいるロープは水気を帯びていた。彼は踏み台に上ってから、澱んだ目と何かを嘲るかのような笑みを見せている。「ひひひ」と言わんばかりの口から、洩れる乱れた息。
そして彼は深呼吸をすると、とうとう首をあのロープの輪へと入れた。慎重に入れて、輪の大きさを調節する。ロープを握っている手は震えを伴っていながらも、強い。足を曲げ、踏み台を退ける準備もできた。あとは己の決心だけとなった――。その時、走馬灯のように脳裏に潜んでいた、追憶の欠片が並べられた。幼少から今までの思い出が、映画のフィルムのように。そして最後に一つの声が、まるで耳元で囁かれてるかのように聞こえてきた。
――ただ、一人で抱え込まないことをお勧めします――
柔らかかったあの口調。何故覚悟がつきそうな瞬間に、この言葉が蘇ったのか、彼は悔しさを覚えたと同時に寂しささえもを感じた。
「何で……、何で……、死なせてくれないんだぁ……」
輪から首を抜き、そのまま倒れるかのように四つん這いになった。意識はしていないのだが、ボロボロと大きな涙の滴が頬を伝う。嗚咽も伴いながら、彼は慟哭した。泣き叫んだ。声が消えるまで、涙が枯れるまで、泣き叫んだ。
「……うわああああああ」
剥き出しになった歯は、力強く食いしばっていた。床には無数の落涙が散乱していた。そこには彼の、哀しく悔しい表情が映っている。床を拳で何度も叩き、嗚咽した。