山學記
第一章
東の空から太陽が昇る。照りつける陽光は、潺々と流れる川の水面に反射し、光を帯びていた。朝霧は河川敷の片隅で蹲り、光り輝く川を一瞥すると、また顔を下げた。
自らを殺め消えたいのにできない、彼は自分の不甲斐なさを内心で言う。彼自身の心の中に憮然たる思いが込み上げ、自然と嘆息が洩れた。同時に彼の自分自身心の中に棚引いた雲を掻き消そうと、手元にあった小石を掴んで、川面へと礫を打った。
水の上を軽やかに滑るように、そして水を切るように、礫は打たれた。しかし、それは真ん中を過ぎたところで勢いがなくなり、そのまま川底へと沈んで行った。あんな風に容易に沈めれば、今頃俺はこんな苦痛を味わわなくても済むのにな、口角を緩ませ彼はそう思う。いつも死ぬことばかり考えていたら、また不意に溜息が口から出てしまっていた。
「はぁ……」
「何を悩んでいらっしゃるんですか?」
背後から突然聞こえた声。それに驚いた彼は咄嗟に振り返る。するとそこには三十代くらいの一人の男が立っていた。顎鬚を拵え、銀縁の眼鏡を掛けている。
「どなたですか……?」
朝霧の慎重な口調。その震えた声に、男は微笑を晒しながら朝霧の横に座った。
「上から目線は嫌いなんでね。私、設楽と申します」
何だろうか、彼の口調はどうも引き込まれる、そう感じた彼は不意に自分の名を名乗っていた。見知らぬ男に。
「あっ……自分、朝霧と申します……」
朝霧はそう言い、軽く会釈をした。設楽は彼の焦る姿を見て、顔を綻ばさせ会釈を返した。
そして設楽は何一つ前置きを置かず、徐に朝霧に意味深な問い掛けをした。
「あなた、何かに悩んでいますか? それとも何かに嫌気が差しているとか」
朝霧は度肝を抜かれた表情を見せる。自分の内心を全て見透かされたような、そんな感覚さえもを覚えた彼は、同時に返答に躊躇いを覚えていた。赤の他人に心の内を語りれない、そう思った挙句小さく首を横に振って言った。
「いや……何も悩んでないですし、何かに嫌気が差しているわけでもないです」
朝霧は設楽から視線を逸らし、手元の草花を弄った。するとその行為を見た設楽は口角を緩ませ、鼻で笑った。笑われてもいい、だからここからいなくなってほしい、朝霧は心の中で唱えていた、刹那。
「嘘ですね」
微笑みながら彼は言う。恐ろしい、怖い。その感情が朝霧の心を支配し、挙動不審に陥っていた。何故か勝手に口元に手が行ってしまい、勝手に体が身を引いていた。
「まぁ根掘り葉掘り伺いはしません。ただ、一人で抱え込まないことをお勧めします」
全く状況が理解できない。彼が一体何者なのかも、彼が一体何を考えているのかも。
すると設楽は胸元から一枚の名刺を取出し、朝霧に差し出すと、忽然と姿を消した。足早に消えてく彼に見向きもせず、名刺を見詰めた。
【帝英大学医学部附属病院 心療内科医長 設楽正嗣】