山學記
まだ太陽は昇らない、彼は誰時。東の空には瑠璃色に帯びた、霞のように薄く淡い雲が棚引いている。何処からか小鳥の囀りが聞こえ、朝霧は重い目蓋を抉じ開けた。
彼の頬には涙の跡がくっきりとあり、彼はそれを拭うように擦った。彼の至る所が沈滞した雰囲気を醸していてるせいか、彼から全く生きる活力さえも感じさせない。彼は擦った手を袂で拭くと、床に、倒れこむかのように座った。細く開いた口からは、生気が漏れているようにも見える。
もう死ぬ気も消えた、ましてや生きる気なんては微塵もない、そう言わんばかりの彼の表情。手を腰に置いて、彼は自棄になって寝ようとした。すると手に何か、紙切れのような感触がする。彼は徐にその紙切れを掴み、目の前に遣って瞥見した。だが、彼はあたかも見なかったかのようにすると、くしゃくしゃにしゴミ箱へ投げた。それは設楽の名刺。――あいつのせいで死ねなかったんだ、彼は拳で太腿を叩く。しかし、彼は即座にその手を止めた。
「死ねない理由が人のせいなんて……どんだけ愚かなんだよ……」
朝霧は呆れたような微笑を浮かべ、名刺を取って広げた。
「帝英大学医学部附属病院……心療内科医長……設楽ま、正嗣」
小さな、今にも消えそうな声。その名刺の下には小さくキャッチフレーズが刻まれていた。
<一人で抱え込まないで>
すると彼はいきなり身嗜みを整え始めた。清楚な服装に着替え、髭を剃り、そして名刺をポケットに入れた。彼は鏡の前で自分の身嗜みを確認すると、何も食わず飲まずして家を跡にした。
一目散に走った。額に汗が伝い、髪がボサボサになっている。だが彼はお構いなしに、ひたすら走った。
走って五分、彼は足を止めた、そこは駅前。沢山の空車のタクシーが整列している。彼は最も手前にあったタクシーに乗り込む。
「て、 帝英大学医学部附属病院まで!」