千里の音
昼が過ぎ、天気は六介の予想通り大荒れに変わった。この調子では仕事にならぬと、雨や風が壁を叩きつけて騒がしい家の中にはいつもより早く家族が集合している。
「ひどい雨ねぇ。六の言う通り早くに洗濯物しまっておいて正解だったわ」
山になっている洗濯物を下の兄弟たちとたたみながら五郷はしみじみと呟いた。隣で同じく洗濯物をたたんでいた六介は視線を下げながら頷くだけでそれに答える。
そんな彼を一瞥し、五郷は他の兄弟たちと顔を見合わせて肩を竦めた。帰ってきてから様子がおかしい六介に家族はみんな気付いている。だが、どう訊いても誰が訊いても六介は何も答えようとしない。仕方なく、家族もそれ以上の追及を避けていた。
ただひとり――――否、一匹、十九郎だけはしつこく腕やら足やらをつついているが、それにも反応はない。十九郎も諦めればよいものを意固地になっているのかひたすらしつこくつついている。
だがさすがにつつかれた所が赤くなってくると一太も止めないわけに行かず、その小さな体に農作業で硬くなった大きな手をずいと伸ばした。十九郎がそれに掴まる直前、突然六介が弾かれたように顔を上げる。視線が向くのは外へと続く扉の方向で、皆の視線は気付いた順にそちらに向かった。
すると、たいした間も空けずに扉が乱暴に開け放たれ、そこからずぶぬれの男が走り入って来る。
最初警戒した父は、しかしそれが見慣れた姿であることに気付き緊張を解いた。
「何だ、与助じゃねぇか。どうしたこんな嵐の中に」
入って来たのは父の友人である与助という男だ。与助は呼吸を整えることなく叫んだ。
「彦兵衛(ひこべえ)、手ぇさ貸せ! 村の子供らが何人か山行ったまんま戻って来てねぇんだ」
与助の言葉に父のみならず家族全員が驚愕する。この嵐の中、子供たちだけが、この時期に山に入った。それは誰しもが言葉を失う事態だ。しかしその中ひとり、六介だけは驚愕の種類が違かった。
父と兄たちと義兄たちが一言で答えて大雨の中を飛び出して行くと、母たちは不安そうな表情を揃え、家族を案じるような言葉を交し合う。
「子供って、誰だろう。ね、六――――六?」
五郷も同様に不安げな表情をしながら六介に声をかける。しかし返事はなく、それどころか六介は真っ青な顔でふらりと立ち上がり、そのまま奥へとおぼつかない足取りで歩き出した。五郷が慌ててそれを追おうとすると、先んじた十九郎が後を追いかける。任せろ、というような一声を残され、五郷は少し迷った後に浮きかけた腰をまた床に下ろした。
一方、皆が集まる部屋から奥の納戸へとやってきた六介は戸を後ろ手に閉めるとそのまま壁に寄りかかるようにして膝を崩す。そして、膝を抱え体を小さく丸めた。くぐもって聞こえるのはしゃくりあげる声。鼻をすする音。それらは止めようにも止まらず、ひたすら続く。
六介は後悔していた。あの時諦めてしまったことを。自分でどうにも出来ないのであれば、大人に言えばよかったのに、それすらも放棄したことを。
声を殺して泣き続けていると、納戸が少しずつ少しずつ開いていく。そして人が通れるはずのない幅動くと、そこから唯一通れる小さな黄色が体を揺らして入ってきた。
六介は気付きつつもそれに反応しない。反応出来なかった。今は彼に優しい言葉を掛けてやる気力すら湧かなかったのだ。友達ではないけれど、知っている者たちを見捨ててしまったという重圧が彼を苛んでいる。
涙を流しながらずっと俯いていると、とてとてと歩いてきた十九郎が六介の前で止まった。そして、くちばしを動かしさえずる。
「泣いてるだけじゃ何も変わらねぇぜ六介」
低い、大人の男の声で。
「……えっ?」
涙に暮れていた六介とて、突然聞き覚えのない声をかけられては驚かずにはいられない。思わず顔を跳ね上げると、抱えている膝の上に十九郎が飛び乗ってきた。眼前に映るのは、やはり可愛らしい小さなひよこの姿。だが今、今聞こえてきた声は間違いなく彼から――――。
「呆けてるんじゃねぇよ。昨日の夜ちゃんと挨拶しただろうが」
どうやってやっているのか舌打ちした十九郎は柄の悪い喋り方で話しかけてくる。やはり間違いなく、十九郎が、ひよこが喋っていた。
口をぱくぱくさせて返す言葉をなくしていると、焦れた十九郎がお得意の体当たりを六介の額に向かってしかけてくる。
「魚の真似なんざしてる場合か。ほらとっとと言いやがれ。何がしたい。どうしたい」
急かすような十九郎の言葉に、六介はぎゅっと唇を結んだ。意地になっているのではないし、驚いてはいるが、十九郎が怖いのでもない。ただ分からないのだ。何と言っていいのか。六介が言葉に出してもいいのか、分からないのだ。
また泣き出しそうになる六介に十九郎は呆れたため息をつく。
「六介、お前は泣く時も声をあげない。それじゃあ何も伝わらないんだよ。はじめて会った時、お前が俺を助けた時、俺はお前が喋れないのかと思ったよ。だから、着いて来るのかって訊かれて驚いたさ」
小さなくちばしを動かすたびに紡がれるその聞き心地のよい声に、六介はつい彼の言葉に耳を傾ける。
「だけど喋れるだろう。五郷も言ってたじゃねぇか。言わなくちゃ通じねぇ。言わなくちゃ聞こえねぇんだよ、俺も、他の人間も。お前の言葉は飾りじゃないんだ。誰も責めねぇから、お前がどうしたいか言え六介」
十九郎が小さな翼を広げた。ただそれだけなのに、今にも雄大な空へと向かうような印象を受ける。六介はじっとこちらを見つめる黒い双眸に圧倒されながら、小さな小さな、本当に小さな声を唇から取りこぼした。
「……たすけ、たい。みんな、ぶじで、いてほしい……」
音になっているのかも怪しい、ほとんど呼吸の近いそれを、十九郎は迷いなく拾い上げる。
「そうだ、それがお前の願いだろう。なら行くぞ。今のお前にならきっと出来る」
膝から飛び降りると、十九郎はぴこぴこと小さな足で早足で歩き出した。六介は涙を拭い鼻をすすり、慌ててその後を追いかける。すぐに追いついてしまったので抱き上げた十九郎に、一体どうするのかと尋ねた。
すると、十九郎ははっきりと笑みを浮かべる。鳥の顔のままだというのに、はっきりと、それは笑顔として六介の目に映った。
「もちろん迎えに行くのさ。まあ魔物どもは任せろ。ただ今の(・・)俺は退魔に力を回すと耳が悪くなるんでな、あいつらの声はお前が探し出せ六介。出来るな?」
彼の言葉の大半は、六介がすぐに納得、そして理解出来るものではなかった。魔物ども? 今? 退魔? 訊きたいことは山ほどある。何より、十九郎が一体何なのか。
だがそれら全てを飲み込んで、六介は心のままに体を動かした。
「――――うん」
力強く頷き、承諾の声を出す。それを機に、六介は十九郎を胸にしまって裏の戸から雨の中を駆け出した。