千里の音
家に帰った時、六介はまず母に寄り道を怒られ、心配され、兄と姉にどこも怪我をしていないかを調べられた。六介は素直に痛みや辛さを訴えないから心配しすぎが丁度いい。不意に昔兄から言われたことを思い出す。
「六、このひよこどうしたの?」
どこにも怪我をしていないことを確認し一息ついたのか、生まれたばかりの我が子を背におぶっている二番目の姉二和(ふたわ)が六介の頭の上に乗っているひよこを指差し尋ねてきた。
六介は小さく「あ」と呟き頭の上に手を向ける。しっくりしすぎていてすっかり忘れてしまっていた。そういえば乗せたままだった、と六介は両手でひよこを持ち上げる。
「えっと……」
何と言おう。正直に言うと一太に、それどころか他の家族にまで怒られてしまうのが目に見えている六介は返答に詰まった。
ひよこを見つめて固まっていると、奥にいた父があごに手を当てながら何か心当たりを思いついたような声をあげる。
「左衛門爺さんの所で貰ったのか。この間たくさん生まれて世話が追いつかねぇって言ってたもんなぁ」
父の言葉に家族は揃って納得を返した。事実とは異なるが、言われてみると六介もそんな気がしてくる。貰った、ではないが、件の左衛門老の家はあの近くだ。そこから逃げ出してきたひよこなのかもしれない。
そうしてひよこはあっさりと受け入れられ、六介は手を洗いに行かされた。どうやらひよこを助けている間に夕飯の準備はすっかり整ってしまったらしい。
その日の夕飯はいつも以上に賑やかだった。ただでさえ食事時は騒がしくなりやすいのに、六介が拾ってきたひよこ――――十九番目の家族ということで十九郎(じゅうくろう)と命名――――が与えられた米粒を蹴り飛ばし食卓に乱入するや人のものを横取りするという所業をやらかしたのだ。三番目の兄と二和の夫の義兄、八番目の妹、年の近い十番、十一番の甥っ子たちを宥めるのは一苦労であった。最終的には十九郎を含め騒いでいた者は全員母から怒りの鉄拳を受けて止まったのだが。
その光景を思い出してくすりと笑う。変な鳥はやっぱりここでも変な鳥で、母から怒られると普通の動物のように怯えるのではなく不愉快そうな様子を見せていた。
六介はそっと目を開ける。全員が寝静まった深夜、少し割れて隙間の出来た木の窓からこぼれてくる月の明かりが優しく部屋の中に降り注ぐ。静かだが、それでもたくさんの音に溢れているこの時間が六介は好きだった。寝息、寝言、衣擦れ、寝返りごとに軋む床、風と、それに揺られる葉のさざなみ、夜に動く鳥や獣、虫たちの声。
ぼんやりとそれらに聴き入っていると、突然耳たぶの辺りをつつかれる。上を向いていた顔をそちらに向けると、頭の横で寝ていたはずの十九郎がじぃっとこちらを見つめていた。黒いつぶらな瞳に可愛さを覚えながら、六介は寝返りを打ち改めて十九郎と向き直る。
「……どうしたの?」
指先で首元を撫でると、十九郎は少し鬱陶しそうな様子を見せた。それでも避けることはせず、ぱくぱくとくちばしを動かす。まるで何か話そうとしているようで、六介は思わずじっとその行動を見つめた。だが、結局次に彼から飛び出たのは普通の鳴き声。残念そうにひとつ笑うと、六介は十九郎に額を寄せる。
「ねぇ十九郎、お前は、お山の神様の名前を知ってる?」
小さな、囁くような声で十九郎に話しかけた。十九郎は返答代わりに六介の額をくちばしでつついてくる。知っているのかいないのか、どちらとも取れるそれにひとつ笑いをこぼしてから六介はささやきを続けた。
「この辺りを守ってくれている神様でね、もきちぎ様っていうんだよ。今は出雲様におでかけしてるけど、おいらたちを見守ってくれているんだ」
山に建てられた社も季節ごとに行われる祭祀も毎日のお供えもすべては山に在(い)ます神のためにある。教えられた十九郎はどこか機嫌よさげに小さな羽根を一度伸ばしてまたたたんだ。その動作を愛おしそうに、しかしどこか寂しく六介は見つめた。
「もきちぎ様はね、言葉が大好きな神様なんだって。だからこの村では言葉が大事なんだ。――――おいらはね、その言葉をあんまり喋らないから嫌われてるんだって。呪われてるんだって」
年の近い子供たちが言っていた。心のない大人たちが言っていた。それは幼い六介には恐怖の言葉でしかなかったが、それでも母を思うと口数はただ減るばかりだったのだ。心の秤を神ではなく母に傾けた六介に、神の加護などあるのだろうか。疑問と言うよりは不安でそう言うと、それまでとは比べ物にならないほど強く額をつつかれた。思わず悲鳴を上げるが、十九郎はそれでも容赦なくひたすらつついてくる。さすがに辛くなり両手で荒ぶる十九郎を押さえて胸の前に持ってきた。それでもまだ暴れようとする新たな家族に六介は少し戸惑いながら、小さな声で謝罪する。
「ごめん、ごめんね十九郎。もう寝たかったんだよね? 静かにするから、お前も静かにしような。もう寝よう」
少し無理に掛け布の中に十九郎を収めて、六介も目をつぶった。
「――――ああ、明日は嵐かな。遠くで雨と風が暴れてる音がする……」
ぽそりとそれだけ呟くと、六介は深い呼気の後まどろみに落ちていく。掛け布の中からは、また十九郎が少し驚いた様子を見せるが、やはり何も言わず、暴れていた格好を解き六介に寄り添って丸くなった。
外では星と月が瞬き、静かに夜は過ぎていく。
大きな鳥。六介はぼんやりとしたもやを挟んだ向こうにいる存在をそう形容した。弱い光を放つ羽毛に身を包んだ、六介よりもはるかに大きな大きな鳥だ。
六介はその存在に驚かない自分と、上下左右が明らかでなく、表現すべき色が浮かばないこの空間を認識した時自然とこれが夢だと分かる。
静かに見上げていると鳥はゆっくりと頭を下ろしてきた。怖じずにそれを受け入れると、鳥のくちばしが軽く六介の耳をつついてくる。まるで人が指で何かを探っているようなその動作に、六介は不思議そうな顔をした。
ややあって鳥が再び顔を上げる。見下ろしてくる眼差しはどこか驚きを孕んでおり、六介は思わず首を傾げた。そんな彼に、鳥は少しだけ顔を動かす。まるで笑っているようだ。そう思っていると、耳にささやかな声が飛び込んできた。
『そうか、お前は――――』
納得したような、少し奇妙な響きのそれ。最後が聞き取れず咄嗟に聞き返そうとした六介だが、その瞬間に意識を強く引かれる感覚を覚える。夢から覚めるのだ、それを理解した瞬間、六介の意識は途切れた。
そうして予想通り、六介は布団の中で目を覚ます。部屋の中は薄暗い。まだ早い時間だと一瞬錯覚するが、いつも同じ時間に起きて家の仕事をする母が動いている気配がするし、父と兄達の姿ももう部屋にはなかった。
割れ目の入った窓から見える空は寂しげな色をしており、天気が曇りなのだと寝ぼけた頭はようやく理解する。
目をこすりながら起き上がると、掛け布団が上半身からぱさりと落ちた。涼しいと寒いの中間の空気が体を撫でる。しかし首元だけはやけに温かく、六介は不思議そうにそこをさすり、そして気付いた。そういえばここに十九郎がいた。