千里の音
そうして井戸にたどり着くと、六介は少し急いで水を汲み、行きとは比べ物にならないほどに重くなった桶を両手で抱えて歩き出す。日も暮れかけ、中央の道からは子供たちの姿は消えていた。しかし、六介は敢えてその道を避け、わざわざ行きと同じ道を通り帰っていく。兄の言いつけを進んで破る気はない。ない、が、気になるのもまた正直なところなのだ。
通り過ぎるだけ通り過ぎよう。何も聞こえなければそれはそれで気が済むだろう。
そんなことを思いながら、六介は先ほどの山と村の境に差し掛かる。予想していたのは何の変哲もないいつもの音景。聞こえてくるのは鳥や虫の声だけ、風が吹けば葉が鳴り、どこかで動物が動いている。そんな“いつもの”夕昏時だった。
だが、実際にたどり着けばその予想とは真逆なほどの喧騒が溢れかえっている。
「な、何……?」
人がたくさんいるわけではない。熊が出たわけでもない。それどころか、視界に映るものは物言わぬものばかりだ。であるのにこの茂みは惜しみなく揺れ騒ぎ、その奥からははたきを振り回しているような音が聞こえてくる。原因は、どうやら山の中、目の前の茂みの向こうからのようだった。
予想外の事態に六介は混乱する。兄の言いつけが頭をよぎり、山の魔物への恐怖が胸に去来する。だが時間を置くたびにまるで苛立ちを表すように音が大きくなるのを聞くといても立ってもいられなかった。
それがただの騒音であったら六介は逃げ出していたと思う。だが、聞こえてくる音は六介には何かから逃れようと暴れている音に聞こえているのだ。その音を前に、六介は逃げることが出来なかった。
しばらくその場で足踏みして躊躇いを見せるが、生来優しい性格の六介は、結局桶をその場において茂みの中に分け入っていく。
兄への謝罪を何度も何度も心の中で繰り返しながら、六介は自分の首の辺りまである茂みを小さな両手で掻き分ける。そうして茂みを抜けた時、六介の目に飛び込んできたのは網の中で激しく鳴き声をあげひどく荒ぶっている黄色の小鳥――――ひよこだった。
(ひよこ……)
想像から少し離れた結果に唖然とする。村にはにわとりを飼っている者も多くいるのでここにいるのもおかしくはない。だとすると、どこの家のひよこだろうか。この網は外してもいいのだろうか。怒られはしないだろうか。もしもこのひよこが今晩のおかずだなんて話だったらどうしよう。
ぐるぐると数多の思考が頭の中を掻き回す。ひよこを見下ろした状態で硬直していると、それまで騒いでいたひよこが網を邪魔そうに蹴りつけながら一層大きな声で一声鳴いた。「とっとと出せ」。そう言っているような、どこか柄の悪いひよこに六介は慌ててしゃがみこむ。
誰も来ませんように。そう願いながら器用に網を解き始める六介に安心したのか、ひよこは途端に静かに、そして尊大になる。ふんぞり返っているような態度をしている小鳥に「変な鳥」と内心で呟きながら、六介はひよこが暴れたせいで余計こんがらがってしまっている網をほぐしていく。
元より手先の器用な六介はさして苦労もせずそれを解き終わり、ひよこの上から網をどかしてやる。
終わったよ。そう言う代わりにふんぞり返ったままのひよこの小さな頭を指先でひと撫でする。地面の上で暴れていたせいで土で汚れた羽毛は、それでも過去に触ったことがないほど柔らかくて少し驚いた。
ひよこは撫でられたことに不興を覚えたらしく器用に身を避けると六介の指先をつつき始める。痛い、というよりはくすぐったさに耐えられず六介は少し頬を緩めながら手をどかした。
そして、軽く手を振ると立ち上がりまた来た道――――ではなく茂みを戻っていく。日はもう落ちる寸前だ。斜陽に染められた赤い世界はきれいな半面不気味で、六介はこの時間があまり好きではなかった。
用事が済むと今更兄の言葉も思い出されてくる。心中で山に住まうという魔物に来るな来るなと重ね、今はこの地を離れているという神への祈りを唱えながら、急いで山から出ようと足を急がせた。
その時、不意に背後から凍るような寒気を感じる。首を絞めようと企むかのような、そんなまとわりつくような感覚にぞっと全身が粟立った。それでも堪えて、勢いよく振り向く。すると眼前に――――小さな黄色い姿が飛び出して来ていた。
視界を埋めた黄色い存在はいずれ飛べない鳥になるとは思えないほどの跳躍を見せて六介に迫る。頭の高さから目の高さまで一瞬高度を落としたかのように見えたが、空中で何かを踏むような動作をすると翼を動かし再び上昇した。
そうしてひよこが落ち着いたのは、何故か六介の頭の上。
「……ねえ、まさか一緒に行く気?」
問うと、頭の上のひよこは「当たり前」というように一声鳴き完全にその小さな体を六介の髪の中に埋める。やっぱり変な鳥。そう思いながらも六介はひよこをどかすことはせずそのまま茂みを抜けていった。
彼は気付いていない。頭の上に居座る鳥が六介が喋った瞬間驚きを浮かべたことに。彼が過ぎ去った後、一瞬地面に奇妙な子鬼のようなものが倒れた状態で現れ、そして地面に融けるように消えたことに。