天つみ空に・其の六~白妙菊の約束~
《其の参》
白妙が忽然と姿を消してから更に幾日か経過した。弥生もそろそろ終わりに近づき、江戸は本格的な春を迎えようとしていた。今年の冬は殊の外寒さが厳しかったせいか、花だよりはまだ聞こえてはこないが、桜の蕾は確実に膨らんできている。
そんなある日の朝、庭で言い争う幼い少女たちの声がふとお逸の耳に入った。
「この花入れは、東雲花魁が大切になさっているお品でありんす。それをよくもこんなに滅茶苦茶に致しんしたな」
まだ馴染まぬ廓言葉で相手を詰っているのは、紛れもなく引っ込み禿の紫乃だ。引っ込み禿はむろん、お職を張る花魁東雲付きとなっていた。将来の花魁候補ゆえ、花魁に預けてその身の回りの世話をして花魁に仕えながら、行儀作法や心得を身につけてゆくのだ。
「私は、何もわざとしたわけじゃないのに」
こちらは、妙乃の方だろう。泣きそうになっているのか、声が震えている。
「大体、いつまでもそんな泥くさい田舎訛(なまり)が抜けないこと自体、何か心得違いをしていなんすのではないかえ? 廓(さと)には、廓(さと)言葉があるから、ちゃんと使うようにとおしがさんからも姐さんからもあれほど言われておりんすのに」
傍から聞いているだけでも、紫乃が妙乃を一方的に苛めているだけのように聞こえる。
お逸はそれ以上、聞いていられなかった。
「紫乃ちゃん、ちょっと待って」
縁廊から呼びかけると、桜の樹の下にいた少女二人がハッとした表情で振り向く。まだ花こそ咲いてはおらぬけれど、弥生末の眩しい陽光を受けた樹の下に佇む二人の禿はそれこそ御所人形のように可憐で愛らしい。
しかしながら、紫乃の少し上向き気味の切れ長の眼は憤りを滲ませていて、可愛らしい面が夜叉のように歪んでいる。それは、以前、松風が花乃屋にいた時分の東雲が時折見せた顔に酷似していた。
松風が身請けされ妓楼からいなくなった今でこそ別人のように優しくなった東雲だが、かつて松風と花乃屋の売れっ妓の地位を争っていた頃は―もっとも、当時、松風の方は東雲からの敵意むき出しの視線も柳に風と受け流し、鷹揚に構えていた―、お逸にも何かにつけ辛く当たることが多かった。
競争相手に目している松風がお逸を可愛がるため、東雲の敵意が余計にお逸に向けられたということもあるだろう。
「お前には拘わりのないことでありんすよ」
紫乃は、突如として現れたお逸を憎々しげに睨(ね)めつける。その刺々しい口調には、下働き風情に気安く話しかけられたくないという気持ちが表れているようだ。
「紫乃ちゃん、妙乃ちゃんとあなたは同じ時期にここに来て、禿になったのよね? 言ってみれば、姉妹のようなものじゃない。そんなに喧嘩腰に喋らないで、もっと優しく話したら良いのに」
お逸が控えめに言うと、紫乃は大きな眼を殊更これでもかと言わんばかりに見開いた。
「姉妹? このあちきには確かに姉さんと妹がおりんしたが、このうすのろとあちきが姉と妹なんて、これっぽっちも考えたこともありんせん」
先刻以上に辛辣に断じるのに、お逸はわずかに眉をひそめた。
「紫乃ちゃん! 人には言っても良いことと悪いことがあるものよ。あなたほどの歳になれば、それくらいは判るものでしょ」
「お前なんぞに何が判るというでありんすか? このうすのろが割っちまった花入れは東雲姐さんがいっとう大切になさっているものにござりんす。それを割ったからには、妙乃さんだけではなく、このあちきまで姐さんにきつうお叱りを受けなんすよ」
苦界と呼ばれる女にとっては地獄のこの吉原、そこに同時期に売られてきたのも、共に楼主に見込まれ引っ込み禿になったのも何かの縁―、何ゆえ、もう少し互いに労り合い庇い合おうとしないのか。
紫乃は冷たい眼で妙乃を見つめている。あどけない顔を修羅のごとく醜く歪めて。
お逸は、そんな紫乃を哀しい想いで眺めた。
もし仮にお逸が紫乃の立場であれば、花瓶を割ったのは妙乃ではなく自分なのだと、その責めを自分が代わってやったかもしれない。紫乃にそうしろとまでは言わないけれど、せめてもう少し優しい思いやりのある言葉をかけてやっても良いのではないか。
「紫乃ちゃん」
お逸が声をかけようとすると、紫乃はキッとお逸を睨みつけた。十歳の少女とは思えぬほど烈しいまなざしに、お逸はややたじろぐ。
「東雲姐さんに叱られても、あちきは知りんせん。全部、お前がやったことなんす」
紫乃は言い捨てると、そのまま走り去っていった。
「妙乃ちゃん、大丈夫?」
紫乃がいなくなった後、重い沈黙がその場を支配した。
妙乃は唇を噛みしめ、立ち尽くしている。
「妙乃ちゃん?」
もう一度呼ばわると、やっと妙乃がお逸を見た。その双眸に露が宿っている。やはり、この子は松風さんに似ている―と、お逸は唐突に感じた。
紫乃が妙乃を何かにつけ苛めているのは、お逸も薄々察してはいた。紫乃と妙乃はかつての松風と東雲の拘わりとも似て、才走って勝ち気な紫乃と大人しくて素直な妙乃は正反対の気性だ。
そのことが、子どもながらに紫乃の神経を逆撫でするのであろうことは判るし、楼主の甚佐がこの二人を何かにつけ対等に扱うのがどうしても納得できないのだろう。紫乃が自分の容貌や利発さに自信を持っていることは、ありありと窺い知れた。いずれ花乃屋の看板を背負ってお職を張る太夫になるのは他ならぬこの自分だと自負しているのかもしれない。
しかし、売れっ妓の花魁になるには、何も美しさや賢さだけが求められるのではない。何日か前に楼主にも言ったように、美貌だけではなく、その内側から滲み出てくる人柄の良さとか美しさといったものが、その魅力となるのだ。残念なことに、今の紫乃にはまだ、その最も大切なものが欠けている。そして、一方の妙乃には、そういった気遣いや優しさが自ら備わっていた。
単に外見だけを比べれば、紫乃の方が勝っているだろうが、妙乃は、そういった紫乃にはないものを持っていた。優しさは、太夫としてというよりは、人が本来持っているべき最も大切な基本要素でもある。
何故なら、そういったものは一朝一夕に身につくものではなく、いかにしても東雲が松風を凌いで一番になれなかった所以でもあった。また、甚佐が紫乃だけではなく妙乃を大切にするのも、妙乃がゆくゆくは売れっ妓になる素質を十分に持っていると思うからこそであった。
そのことを、紫乃は内心不満に思っているのだ。
「紫乃ちゃんも悪気があって言っているのではないと思うから」
お逸が気遣うように言うと、妙乃んが淋しげに微笑む。
「私は、紫乃さんの言うとおり、本当に愚図で、どうしようもないから、紫乃さんを苛々させてしまうんです。気もきかなくて、いつも紫乃さんの脚を引っ張ってばかり。私がしっかりすれば、東雲姐さんに叱られることももう少しは少なくなると思うんですけど。私なりに頑張ってはいるつもりなんですけど、駄目ですね、いつも失敗ばかり」
そう言って涙ぐむ妙乃の姿に、お逸はいつしか我が身を重ねていた。白妙に笄を盗んだとあらぬ罪をでっち上げられ、危うく盗っ人にされるところだった自分。
白妙が忽然と姿を消してから更に幾日か経過した。弥生もそろそろ終わりに近づき、江戸は本格的な春を迎えようとしていた。今年の冬は殊の外寒さが厳しかったせいか、花だよりはまだ聞こえてはこないが、桜の蕾は確実に膨らんできている。
そんなある日の朝、庭で言い争う幼い少女たちの声がふとお逸の耳に入った。
「この花入れは、東雲花魁が大切になさっているお品でありんす。それをよくもこんなに滅茶苦茶に致しんしたな」
まだ馴染まぬ廓言葉で相手を詰っているのは、紛れもなく引っ込み禿の紫乃だ。引っ込み禿はむろん、お職を張る花魁東雲付きとなっていた。将来の花魁候補ゆえ、花魁に預けてその身の回りの世話をして花魁に仕えながら、行儀作法や心得を身につけてゆくのだ。
「私は、何もわざとしたわけじゃないのに」
こちらは、妙乃の方だろう。泣きそうになっているのか、声が震えている。
「大体、いつまでもそんな泥くさい田舎訛(なまり)が抜けないこと自体、何か心得違いをしていなんすのではないかえ? 廓(さと)には、廓(さと)言葉があるから、ちゃんと使うようにとおしがさんからも姐さんからもあれほど言われておりんすのに」
傍から聞いているだけでも、紫乃が妙乃を一方的に苛めているだけのように聞こえる。
お逸はそれ以上、聞いていられなかった。
「紫乃ちゃん、ちょっと待って」
縁廊から呼びかけると、桜の樹の下にいた少女二人がハッとした表情で振り向く。まだ花こそ咲いてはおらぬけれど、弥生末の眩しい陽光を受けた樹の下に佇む二人の禿はそれこそ御所人形のように可憐で愛らしい。
しかしながら、紫乃の少し上向き気味の切れ長の眼は憤りを滲ませていて、可愛らしい面が夜叉のように歪んでいる。それは、以前、松風が花乃屋にいた時分の東雲が時折見せた顔に酷似していた。
松風が身請けされ妓楼からいなくなった今でこそ別人のように優しくなった東雲だが、かつて松風と花乃屋の売れっ妓の地位を争っていた頃は―もっとも、当時、松風の方は東雲からの敵意むき出しの視線も柳に風と受け流し、鷹揚に構えていた―、お逸にも何かにつけ辛く当たることが多かった。
競争相手に目している松風がお逸を可愛がるため、東雲の敵意が余計にお逸に向けられたということもあるだろう。
「お前には拘わりのないことでありんすよ」
紫乃は、突如として現れたお逸を憎々しげに睨(ね)めつける。その刺々しい口調には、下働き風情に気安く話しかけられたくないという気持ちが表れているようだ。
「紫乃ちゃん、妙乃ちゃんとあなたは同じ時期にここに来て、禿になったのよね? 言ってみれば、姉妹のようなものじゃない。そんなに喧嘩腰に喋らないで、もっと優しく話したら良いのに」
お逸が控えめに言うと、紫乃は大きな眼を殊更これでもかと言わんばかりに見開いた。
「姉妹? このあちきには確かに姉さんと妹がおりんしたが、このうすのろとあちきが姉と妹なんて、これっぽっちも考えたこともありんせん」
先刻以上に辛辣に断じるのに、お逸はわずかに眉をひそめた。
「紫乃ちゃん! 人には言っても良いことと悪いことがあるものよ。あなたほどの歳になれば、それくらいは判るものでしょ」
「お前なんぞに何が判るというでありんすか? このうすのろが割っちまった花入れは東雲姐さんがいっとう大切になさっているものにござりんす。それを割ったからには、妙乃さんだけではなく、このあちきまで姐さんにきつうお叱りを受けなんすよ」
苦界と呼ばれる女にとっては地獄のこの吉原、そこに同時期に売られてきたのも、共に楼主に見込まれ引っ込み禿になったのも何かの縁―、何ゆえ、もう少し互いに労り合い庇い合おうとしないのか。
紫乃は冷たい眼で妙乃を見つめている。あどけない顔を修羅のごとく醜く歪めて。
お逸は、そんな紫乃を哀しい想いで眺めた。
もし仮にお逸が紫乃の立場であれば、花瓶を割ったのは妙乃ではなく自分なのだと、その責めを自分が代わってやったかもしれない。紫乃にそうしろとまでは言わないけれど、せめてもう少し優しい思いやりのある言葉をかけてやっても良いのではないか。
「紫乃ちゃん」
お逸が声をかけようとすると、紫乃はキッとお逸を睨みつけた。十歳の少女とは思えぬほど烈しいまなざしに、お逸はややたじろぐ。
「東雲姐さんに叱られても、あちきは知りんせん。全部、お前がやったことなんす」
紫乃は言い捨てると、そのまま走り去っていった。
「妙乃ちゃん、大丈夫?」
紫乃がいなくなった後、重い沈黙がその場を支配した。
妙乃は唇を噛みしめ、立ち尽くしている。
「妙乃ちゃん?」
もう一度呼ばわると、やっと妙乃がお逸を見た。その双眸に露が宿っている。やはり、この子は松風さんに似ている―と、お逸は唐突に感じた。
紫乃が妙乃を何かにつけ苛めているのは、お逸も薄々察してはいた。紫乃と妙乃はかつての松風と東雲の拘わりとも似て、才走って勝ち気な紫乃と大人しくて素直な妙乃は正反対の気性だ。
そのことが、子どもながらに紫乃の神経を逆撫でするのであろうことは判るし、楼主の甚佐がこの二人を何かにつけ対等に扱うのがどうしても納得できないのだろう。紫乃が自分の容貌や利発さに自信を持っていることは、ありありと窺い知れた。いずれ花乃屋の看板を背負ってお職を張る太夫になるのは他ならぬこの自分だと自負しているのかもしれない。
しかし、売れっ妓の花魁になるには、何も美しさや賢さだけが求められるのではない。何日か前に楼主にも言ったように、美貌だけではなく、その内側から滲み出てくる人柄の良さとか美しさといったものが、その魅力となるのだ。残念なことに、今の紫乃にはまだ、その最も大切なものが欠けている。そして、一方の妙乃には、そういった気遣いや優しさが自ら備わっていた。
単に外見だけを比べれば、紫乃の方が勝っているだろうが、妙乃は、そういった紫乃にはないものを持っていた。優しさは、太夫としてというよりは、人が本来持っているべき最も大切な基本要素でもある。
何故なら、そういったものは一朝一夕に身につくものではなく、いかにしても東雲が松風を凌いで一番になれなかった所以でもあった。また、甚佐が紫乃だけではなく妙乃を大切にするのも、妙乃がゆくゆくは売れっ妓になる素質を十分に持っていると思うからこそであった。
そのことを、紫乃は内心不満に思っているのだ。
「紫乃ちゃんも悪気があって言っているのではないと思うから」
お逸が気遣うように言うと、妙乃んが淋しげに微笑む。
「私は、紫乃さんの言うとおり、本当に愚図で、どうしようもないから、紫乃さんを苛々させてしまうんです。気もきかなくて、いつも紫乃さんの脚を引っ張ってばかり。私がしっかりすれば、東雲姐さんに叱られることももう少しは少なくなると思うんですけど。私なりに頑張ってはいるつもりなんですけど、駄目ですね、いつも失敗ばかり」
そう言って涙ぐむ妙乃の姿に、お逸はいつしか我が身を重ねていた。白妙に笄を盗んだとあらぬ罪をでっち上げられ、危うく盗っ人にされるところだった自分。
作品名:天つみ空に・其の六~白妙菊の約束~ 作家名:東 めぐみ