天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~
甚佐の細い眼が油断なく光った。
「よし、お逸という娘、儂が直接、問いただしてみてやろう。丁度、良い機会だ。あのたどんが真にお前がそこまでかうだけの女かどうか、この儂がとくと見極めてやろうじゃねえか」
もう退がって良いとぞんざいに言われ、おしがは、がっくりと肩を落として楼主の部屋を辞した。
もしや、己れがまんまと老獪な甚佐の挑発に乗って吐いた不用意なひと言が、哀れな娘の運命を一転させてしまうかもしれない。そう思うと、心が沈んだ。
それにしても、あの甚佐という楼主はつくづく怖ろしい男だ。上辺は穏やかで物判りの良い仮面を被っているだけに、余計に質が悪い。なまじ頭が回って謀(はかりごと)に長けているだけに、ひとたび眼をつけた女には凄まじいまでの執着を見せ、徹底的に食い物にしようとする。
おしがは暗澹とした想いに陥りながら、一人、ゆっくりと磨き抜かれた廊下を歩く。あの娘が来てからというもの、廓内の廊下という廊下を隅から隅まで磨き上げるゆえ、見違えるほど垢抜けて綺麗になった。几帳面で、言いつけられた仕事は最後まで気を抜かず丁寧にやり遂げようとする。
良い娘だ、とおしがは改めて思う。あの働き者の優しい娘が老練な楼主の餌食にならねば良いがと、祈らずにはいられなかった。
一方、お逸はおしがと入れ替わるように楼主部屋に呼び出された。
いつものことで、甚佐はお気に入りの煙管を口にくわえ、紫煙を立ち上らせている。
「お呼びだとお伺いしましたが、何かご用でしょうか」
きちんと両手を付いて見つめてくるその物腰も態度も申し分ない。これは、この娘の生まれ育ちがけして卑しいものではないことを何より物語っている。ちゃんとした躾を仕込む、きちんとした家―もしくは、それを教えられるだけの家庭で育ったということだ。
何か相応の事情があって、真吉と二人、兄妹と偽り、ここに来たのだろう。
―真吉―、真吉か。
甚佐は、いつも寡黙で控えめなあの若者の貌を思い出す。
怖ろしいほど腕が立ち、度胸が据わった男だ。甚佐を相手にしても堂々と駆け引きをし、まんまと妹と共にここに居座ることに決めてしまった。腕力だけでなく、頭も切れる。おまけに上男ときているから、花魁の東雲すら真吉におか惚れしているとの専らの噂だ。
あの真吉とたどんは、やはり訳ありの仲なのか。何か言うに言えぬ事情があって、一緒になれなくて駆け落ち―、若い追いつめられた二人が辿るお決まりの道だ。
若さとはつくづく、無防備で愚かなものだ。既に四十の半ばを越えようとする甚佐は、そんな若さを哀れみこそすれ、羨ましいとは微塵も思わない。
その先に何が待ち受けているか、己れたちがどのような悲惨な運命を辿るかも知らず、一時の激情に身を任せるなど、所詮は人の世の何たるかを知らぬ若造どものすることだ。
甚佐にとって、お逸と真吉がいかなる事情があってここに来たのかなぞは、どうでも良いことだ。ただ、いかにあの腕利きの用心棒が使えるとしても、たどんが松風に代わる稼ぎ頭になり得ると判断した場合は、ここから出ていって貰わねばならないだろう。
あれほどの腕と知力とを併せ持つ男を手放すのは惜しいが、甚佐にとっては花乃屋の存続の方がよほど大事なのだから。用心棒の代わりならば幾らでも手に入れられるが、百年に一人の名妓に育つだけの娘はそう滅多と見つかるものではない。
問題は、もし真吉とお逸が恋仲であった場合、真吉があっさりとお逸を諦めるかどうかということだろう。すべてを捨てて逃げてきたほどだ、そう易々と手放すとは思えない。
むろん、ひきかえに相応の金を握らせてやろうとは考えてはいるが、あの真吉という男が金で動くような男ではないことは、甚佐にだとて判る。
仮に真吉がどうしてもお逸を手放さないときは、男の方を始末しなければならない。甚佐とて、亡八とは呼ばれてはいても、何も好んで人を殺めたくはない。できれば穏便に事を進められれば、言うことはないのだ。そのためにも、何とかしてあの男―お逸の兄だという真吉をうまく説き伏せねばならない。
もっとも、真吉があまりにもあっさりと金で片を付ければ、このまま見世に置いてやっても良いのだ。何しろ、あれだけの腕を持つ男はそうそうはいない。飼っておけば、これからも使える機会はしょっ中あるだろう。
甚佐は心の中で一人、ほくそ笑みながらも、渋面を作り、お逸を見つめた。
「今日、ここに呼ばれたのは何故か、もう判っているだろうね」
お逸は甚佐の鋭い視線を臆することもなく真正面から受け止める。
「はい」
きっぱりと言った物言いも潔くて、甚佐は気に入った。
「そうか、ならば話は早い。儂は持って回った言い方は苦手なので、単刀直入に訊こう。白妙の笄を盗んだのはお前なのか?」
甚佐はお逸をじいっと見つめた。
大抵の娘ならば、その炯々たる眼(まなこ)に見据えられただけで、縮み上がってしまう。
しかし、お逸はその鋭い眼光を発止と受け止め、いささかも眼を逸らすことはなかった。終始毅然とした態度を貫いたのだ。
五ヵ月前、初めてここに来た日、甚佐を怯え切った眼で窺うように見上げていたお逸の姿が今でもありありと浮かぶ。あのときは、臆病で警戒心の強い野兎のような小娘だと思ったものだった。が、今、自分と対峙しているのは、甚佐と眼を合わせることにすら怯えていた、いかにも気弱そうな娘とは別人のようである。
「私には一切身に憶えのないことでございます。私は白妙さんの笄を盗んだりはしておりません。それに、旦那さま、あの笄は元々、松風花魁からこの私が名残にと頂いたものなのです。私自身、何ゆえ、花魁から頂いたあの笄が白妙さんのもので、それを私が盗んだということになっているのか皆目判らないのです」
すかさず口にした応えも要領を得たものだった。
―これで、すべては決まった。
甚佐の眼がねに、この娘は見事叶ったのだ。
甚佐は心中をいささかも面には出すことなく、静かな表情で頷いた。
「あの笄が白妙のものではなく、端からお前のものだと証明できる者がこの見世にいるかね」
これには、いささかの刻を要した。
お逸はわずかな逡巡の末、心もち小さな声で応える。
「兄に―花魁から餞別にと美しい笄を頂いたと話したことがありました。私には分不相応なほどに見事なものだったので、嬉しくて、つい話さずにはいられなかったのです。でも、他の人にはそのことを話してはいません」
「ホウ、真吉にその話をしたと? お前たちは、そうやってよく二人きりで話したりしているのか」
矢継ぎ早に発せられる問いに、お逸は首を振った。
「いいえ、私も兄も仕事がございますので」
「そうか」
甚佐は納得した風に頷くと、もう一度、お逸を見つめた。
「それでは、お前は本当にやっていないと申すのだね」
「はい」
今度ははっきりとした返答が返ってくる。
その黒い瞳に偽りはないと甚佐は確信を持った。
「その松風がくれてやったという笄のことだが、お前はそれが本当に自分には過ぎたものだと思うか」
ふと予期せぬことを訊ねられ、お逸は戸惑いつつも素直に思うがままを口にした。
作品名:天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~ 作家名:東 めぐみ