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天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~

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「松風花魁は素晴らしいお方にございました。女人としても人間としても滅多とお眼にかかることの叶わぬ方であったと思うております。その花魁が大切になさっていたお品を下働きの私なぞに下さるとは考えてもみなかったものでございますから」
 これは年頃の少女らしく少し頬を赤らめて言うのに、甚佐はひとりでに顔を綻ばせていた。
「お前にも松風の良さが判ったか」
「はい、お姿の美しさだけではなく、内面から光り輝くものが花魁にはおありでした。あのような女人のお傍に短い間でもお仕えすることができた私は果報者であったと存じます」
 そう言ってから、お逸は我に返った様子で手をつかえた。
「申し訳ございません、生意気なことを申し上げてしまいました」
 甚佐は笑って手を振る。
「いや、気にせずとも良い。お前なら、松風以上の名妓になれるだろう」
「―え?」
 甚佐の科白の最後の方はあまりにも低い声で、よく聞き取れなかった。
「いや、何でもない。歳を食うと、どうにも独り言が多くなるのだ。判った、笄の件は、お前の言うことを信じよう」
 甚佐は鷹揚に言うと、顎をしゃくった。
「もう良い、行きなさい」
 甚佐に言われ、お逸は頷いた。
「はい」
 両手をつかえて頭を下げ出ていく。
 お逸のか細い後ろ姿に向けるその視線は、冷えた光を宿している。酷薄な眼は、底なしの湖のように底知れず、不気味なほど静まり返っている。
 だが、裏腹に甚佐の心は久々に浮き立っていた。花魁になれるだけの気概を持つ娘を松風以来、久方ぶりに見たと女郎屋の主人(あるじ)としての血が騒ぐ。砂の海の中で、たったひと粒の光り輝く石の原石を見つけたときにも似た高揚感が甚佐を支配していた。
 あの娘は、たどんどころではない。東雲なぞ脚許にも及ばないばかりか、もしかしたら、松風さえ凌ぐ不世出の花魁になるかもしれない。少なくとも今、甚佐はそれだけの可能性を秘めた娘にめぐり逢ったのだ。
 いつものように思案に耽るときの癖で、甚佐は片頬を歪め、手前の煙草盆を引き寄せる。
―あの娘は使いものになる。
 五ヵ月前、あの娘を初めて見たときの己れの勘はやはり外れてはいなかった。己れの読みが当たったことに甚佐は満足げな吐息を洩らし、一人で頷いた。
「これから忙しくなるな。花乃屋の新しい売れっ妓の誕生だ」
 うまくゆけば、吉原随一の名妓と謳われた松風以上の花魁になる娘をこの自分は見つけ出したのかもしれない。
 甚佐はほんの短いやりとりの間に、お逸の気性や利発さのみでなく、話しながらその容貌をもとくと観察した。流石に亡八を二十有余年勤め上げてきただけあり、その点は抜かりはない。
 この時、甚佐は、お逸の膚が不自然なほどに黒いことに今更ながらに気付いた。もっとも、ここまで間近でじっくりとこの娘を眺めたことは今だかつてなかったのだから、仕方のないことかもしれない。
 自分としたことが、やられたと思わざるを得ない。たどん娘は、自分が誰からもたどんのような醜い女だと思われるようにわざと見苦しく装っているのだ!! いくら地黒でも、この膚の色はあまりにも不自然すぎる。
 恐らくは、何か―炭などで膚を塗って黒く見せているのだろう。この黒い膚をきれいに洗って磨いてやれば、その下からは恐らくは雪のような膚が現れるに相違ない。
 眉も同様に、わざと濃く太く描いているのだろう。膚を本来の色に戻し、眉を整えれば、この眼鼻立ちであれば、さぞ美しくなるに違いなかろう。更に化粧を施し、きらびやかな簪や笄を幾つも挿し、つややかな黒髪を高々と結い上げ、豪奢な打掛や小袖を身に纏えば、眼にも眩しいほどの花魁の晴れ姿となるだろう。
 甚佐は何かをやり遂げる前の高ぶった気持ちを自分で持て余しながら、ニヤリと笑う。
 この高揚感がたまらない。亡八として後の世にその名を残すほどの花魁をこの世に送り出す―、それほどやり甲斐のある仕事はない。
 二十年余りにも渡って女郎屋の楼主として廓を切り盛りしてきた甚佐の血がしきりに騒ぐ。
―お遊びはこれで終わりだ、お嬢ちゃん。
 そういつまでも、あの二人の茶番に付き合ってやるつもりはない。兄妹ごっこも醜いたどん娘のふりをすることももう直、止めさせなくてはならないだろう。
 甚佐は、あの娘を見た刹那から今日までずっと心に引っかかっていた何かの正体をこの時、漸く突き止めたのだった。
 その日の中に、部屋持ち女郎の白妙がいずこへともなく姿を消した。やり手のおしがは、白妙は急に体調を崩して、急遽、療養のため別の場所に移ったのだと言い訳めいた説明をしたけれど、その日の朝まで白妙がいつもと変わらず元気だったことを見世中の誰もが知っている。
 が、よもや、酷い折檻を受けた白妙がついに真相を白状し、その罰として羅生門河岸の安見世に鞍替えさせられたのだと知る者はいなかった。
 お逸を引見した後、甚佐は白妙を若い衆数人に尋問させた。自らもその場に立ち会ったのだ。もちろん、初めはシラを切り通した白妙だが、少し痛い目に遭わせただけで、他愛もなくペラペラと自らの罪を暴露してしまった。
 お逸は真吉の他に誰にも松風から笄を貰ったことを話してはいないと言ったけれど、実は、お逸が大切そうに笄を懐から取り出して眺めていたのを、白妙が見たことがあるという。白妙は、その蝶を象ったきらびやかな笄が松風花魁のものだと知っていた。
 白妙は、お逸に口に出して問うことはなかったが、その笄を妬ましく見つめたものだった。美しく賢く、誰にでも優しい松風花魁は花乃屋の女郎たちの憧れであった。
 白妙もまた、松風に憧れ、あのような花魁になれることを夢見ていた一人であったのに、花魁は、たどんのような小娘には大切な笄を形見としてくれてやったにも拘わらず、白妙には餞別として白絹の単布を一つ形式的にくれたにすぎなかった。
 これは、やり手のおしがや他の女中たちにも一人につき一反ふるまわれたもので、殊に松風の思い入れのこもったものではないことは判っていた。白妙はそれが業腹(ごうばら)で、自分しか笄のことを知らぬのを良いことに、お逸に事実無根の罪―自分が松風から貰った笄をお逸が盗んだというもの―をなすりつけたのだ。
 そこまでは、まあ、頭の良くない白妙にしては、よく考えたと賞めてやっても良い。しかし、あまりにも芝居が下手すぎた、もしくは、喋りすぎたのが計画の破綻に繋がった。
 おしがに対し、廓中の者の荷をとことん調べて欲しいと訴えたことや、下働きの女中が笄欲しさに盗ったのかもしれないと余計なことばかりを並べ立てたために、おしがに疑念を抱かせることになった。
 併せて、日頃のお逸の陰陽なたのない人となりを考えれば、これが白妙の仕組んだ巧妙な罠であったことなど一目瞭然であった。
 その後、白妙がどうなったのかを知る者はいない。ただ、花乃屋の若い衆の一人が後日、羅生門河岸の切り見世(最下級の安妓楼)で白妙によく似た女を見たとポツリと洩らしたことがあったが、どう見てもその女郎は気が触れているようで、自分がどこの誰かすら自覚できないほどの狂人であった。
 それゆえ、その女が果たして白妙かどうかは、その若い衆にも確かめるすべはなかった―。