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天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~

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 更に、皆の部屋、持ち物の一切をくまなく調べ上げてゆく。むろん、お逸たち下働きの女中たちもその詮議を受けた。そして―、事態は予期せぬ方向に向かうことになる。詮議が始まって三日め、お逸の荷物が調べられるに至り、あろうことか、柳行李の中から蝶の笄が発見されたのだ。
 もちろん、お逸は無実を訴えた。あれがお逸の荷から出てくるのは当然のことだ。何故なら、お逸は、半月前、花魁直々に部屋に呼ばれ、美々しい笄を手ずから餞別にと手渡されたのだから。お逸が持っていて当たり前の品がお逸の柳行李から出てくるのはむしろ何の不思議もないのだけれど、残念なことに、お逸が花魁からあの笄を貰ったことを知るのは、この廓では真吉しかいない。
 あれから二度ほど物陰でほんの少し二人だけで話す機会があり、その際、真吉には話したのだ。ひそかに憧れていた花魁が大切な想い出の品をお逸にくれた―、そのことが嬉しかったから。真吉には、どんなことでも―殊にそれが嬉しかったことなら―伝えたかった。
―良かったな。
 その時、真吉はいつものように優しく髪を撫でてくれた。
 また、いつかのようにそっと抱きしめて、唇を重ねられるのかとお逸はその時、ほんの一瞬だけ期待してしまった。しっとりと熱を帯びた真吉の唇の感触が今も生々しくお逸の記憶に刻まれている。
 しかし、真吉はあれ以来、お逸の髪を撫でるだけで、抱き寄せようとすらしなくなった。何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうかと思い返してみても、別段心当たりはない。真吉のことを思い出すと、いつもそんなことを考えてしまう、髪を優しく撫でられる以上の触れ合いを求めてしまう己れをはしたないもののように思うのだった。
 それでも。たまにしか逢えないからこそ、その腕に抱きしめて欲しいと願ってしまうのは、所詮は、お逸の我が儘なのだろうか。お逸の心は切ないほどに、真吉を求めているのに。
 よもや真吉が一度お逸に触れてしまえば、己れ自身に歯止めがきかなくなるのを怖れ―、敢えて軽い触れ合い以上のことをしないのだとは考えもしないお逸であった。
 仮に、おしがが真吉に問えば、真吉はそのことについての証言はしてくれるだろう。しかし、ここでは、真吉とお逸は兄妹という触れ込みになっている。兄の言うことが妹を庇ってのものだと言われてしまえば、所詮は、そこまでのことだ。
 流石に花乃屋の遊女たちから怖れられているおしがも、このままでは、どう対処したら良いものか途方に暮れた。お逸の持ち物の中から盗まれたという笄が見つかった以上、お逸を罰しなくてはならない。が、この長年やり手を務め、多くの女たちを束ねてきたおしがには、お逸が他人の物を盗むような娘には思えなかったのだ。
 それは甚佐と同じく、たくさんの女たちを見てきたやり手ならではの勘であったろう。あの娘の涼しげな瞳には理知の光がある。そして、他人の痛みを思いやれる娘だ。あの娘に盗人のような真似ができるとは到底信じられない。
 このままでは、おしがは、お逸を何らかの形で処罰しなければならなくなるだろう。おしがは考えあぐねた末、楼主の甚佐に相談した。おしがからひととおりの経過を聞いた後、甚佐は事もなげに言った。
「たどんの柳行李から笄が出てきたというのであれば、それは、間違いなく、あの娘が盗んだということではないのか」
 よもや甚佐がわざとそんなことを言っているのだとは思いもせずに、おしがはいつになくムキになって甚佐に言い返す。
「ですが、お言葉ですが、旦那、あの娘が他人の物を盗むような人間だとは、どうしても思えないんですがねえ」
「そうかい、元々、あの娘は真吉の妹という触れ込みで突然転がり込んできた。真吉の用心棒としての腕を必要としていなければ、あんな薄汚れた小娘なぞ、とうに放り出していただろう。言ってみりゃア、どこの馬の骨ともしれねえ小娘をお情けで置いてやっているだけのこと、そんな素性の知れねえ小娘なら、盗っ人どころか人殺しをしたって、おかしくはねえ」
 甚佐が吐いて捨てるように言うと、おしががキッとして楼主を睨み据えた。
「失礼ですが、旦那、あたしゃア、旦那がそんな狭い了見をお持ちだとは金輪際知りませんでしたよ。こんなことを言っては何だが、この吉原にいる人間に氏素性の知れたような、たいした人間がいるなんて、あたしゃア、今までちっとも存じませんでしたよ。ここは言ってみれば、皆が皆、理由(わけ)ありで他人(ひと)さまに知られたくない昔の疵の一つや二つは持ってる―そんな連中ばかりがうようよいるようなところです。旦那にしろ、このあたしにしろ、それは似たようなものじゃないですか。たったそれだけのことで、あの娘を端から盗っ人だと決めつけるのは、あの泣く子も黙る花乃屋の旦那とも思えない、とんだ早とちりじゃないかと思いますがね」
 まんまと己れの挑発に乗ってきたおしがを愉快そうに見つめ、甚佐はわざと相手を苛立たせるようにゆっくりと言った。
「ホウ、おしががそこまで他人の肩を持つのを儂は初めて見たな。お前さんは確かに長年苦界と呼ばれる世界で生き抜いてきた女だ。儂とはまた、違った眼で人を見ることができるだろう。そのお前がそれほどまでに言うからには、あの娘に何か感じるところがあるのかい」
 花乃屋の遊女たちからは冷酷で容赦ないと畏怖されているおしがである。長い間やり手として花乃屋の女たちを監督してきたが、甚佐は、おしががここまで一人の女を庇うのは初めて見たのだ。
 おしがは、ひび割れた上唇を舐め舐め言った。
「あの娘の眼ですよ、旦那」
「あの娘の眼?」
 たたみかけるように言うと、おしがは思案顔になった。
「ええ、あの娘は実に良い眼をしています。明るい、それでいて引き込まれそうに深くて澄んだ眼だ。あんな眼を持つ娘に悪ィことなんぞはできっこありません。それにね、旦那、あの娘がここに来てから、かれこれ五月(いつつき)にはなりますけど、あの娘はよく気の付く娘ですよ。あたしゃ、ずっと見てましたから、判ります。陰陽なたなく働くし、誰もが嫌がることを自分から進んでしょうとする。機転も利くし、自分より年下の幼い禿たちの面倒もよく見てやっていて、優しい気性でもあるようです」
「こいつは愕いた。人を見る眼は儂以上に厳しいお前が手放しで賞めるとはね。おしが、そういえば、ずっと昔にもそんな娘がいたな。松風が引っ込み禿としてうちに入ったばかりの頃、やはり、お前はそんな風に手放しであの娘をやたらと賞めていたっけ。ということであれば、あのたどんは器量はさておき、ゆくゆくはお職を張る花魁にもなれる素質を持っている―と、こういうことになるのかもしれないねえ」
 甚佐がおもむろに言うと、おしががハッとした表情(かお)になった。
「そんな、まさか。旦那、一体何をお考えになってるんですか?」
 甚佐はその問いには応えず、ニヤリと口角を笑みの形に引き上げる。
「まァ、儂もそこまで急いてはいないさ。かしが、こいつは面白いことになるかもしれないぞ」
 甚佐は低い声で笑いながら言った。
「女を見る眼には殊に厳しいお前をそこまで動かしたあの娘、もしかしたら、松風という立て役者を失ったこの見世の窮地を救ってくれるかもしれん」