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天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~

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 お逸の視線と妙乃の視線が交わった。途端に、妙乃の愛らしい顔が強ばる。その大きな瞳には冴え冴えとした涙の雫が残っている。―やはり、妙乃が泣いていたのは、見間違いではなかったようだ。
 怯えた子鹿のように逃げてゆく妙乃の後ろ姿に、お逸は呼びかけた。
「妙乃ちゃん!!」
 逃げてゆく途中、妙乃の袖から、ひらりと何かが落ちた。恐らくはお逸の姿を認めて、慌てて袂にねじ込んだ物―先刻まで胸に抱きしめていたものに違いない。
 お逸は妙乃の落とした物を拾い上げ、更に妙乃を呼び止めようとしたけれど、妙乃の姿はもうどこにも見当たらない。
 禿の部屋は、おしがのやり手部屋の隣にあるゆえ、一階に降りて自分の部屋に戻ったのかもしれない。引っ込み禿もその寝起きする部屋においては、他の禿たちと共同である。
 お逸は小さな溜息を吐き、拾い上げたものを見て、愕然とした。それは、一枚の紙―、何者かから妙乃に当てた手紙らしかった。小さな紙片にたどたどしい字で記されている。

 〝こうきち、やまいあつし ひび、ないて、あねさのかえりまつ
 いちにちもはやう もどられたし〟

 文の最後には〝しょうた〟とこれも同一人物の手蹟らしい字で書かれている。お逸はむろん読み書きもできるし、漢字混じり文の書物もひととおりは読みこなせるだけの教育は受けている。
 この短い手紙は、恐らくは文字の読み書きもやっとという者がそれでも何とかして窮状を伝えようと懸命に書いたのに相違ない。書いた者の想いが伝わってくるような文であった。
 それにしても、大変なものを見てしまったと、お逸は蒼褪めた。脚抜けが廓ではきつい法度であることは、誰でも知っている。それはたとえ禿であろうが、花魁であろうが、同じことだ。金で買われた女郎という身であれば、廓から黙って抜け出すことは許されない。
 この文を書いた者がそのことを知らぬはずはないのに、妙乃に一日も早く戻ってこいと言っている。この短い文面からすれば、〝こうきち〟は妙乃の弟というところか。
 弟が重い病にかかって、毎日泣いて妙乃の帰りを待ち侘びている。だから、一日も早く帰ってきて欲しいと、〝しょうた〟という男が頼んでいるのだ。この〝しょうた〟が妙乃にとっては、どういう拘わりなのかは推し量るすべもないけれど、かなり切迫した状況であることは明白だろう。
 お逸の耳奥で再びおしがの言葉が甦った。
―亭主に売られ、親に売られ、身体を売らなきゃならない羽目になっちまうんだから。
 あれは、誰のことを言ったのだろう。亭主に売られたのは他ならぬおしが自身、むろん、廓に来る女たちの大方は親兄弟に売り飛ばされた者も少なくはない。
 妙乃だとて、恐らくは親が女衒に売ったのだろうくらいの察しはつく。脚抜けが女郎にとっては禁忌であることを知りながら、帰ってこいと文をよこす男、妙乃を売り飛ばした親たち。文をよこした男の一生懸命さもその差し迫った状況も判るだけに、この文を見た妙乃の心中が案じられた。
 とにかく、この文を妙乃に返し、くれぐれも早まったことだけは考えぬように言い含めねばならない。お逸は小さな紙片をきちんと折り畳み、懐深くにしまい込んだ。一刻も早く妙乃を探し出さなければならないと、お逸の心は逸(はや)っていた。
 まさか、このわずか後に、自分の方が妙乃のことどころではない災難に見舞われることなど、知りもしなかった。

 翌日の朝、花乃屋は大騒動になった。その騒動の因(もと)というのが、部屋持ち女郎の白妙が放ったひと言であった。まだ朝の四ツ(午前十時)といえば、女たちは床の中にいる時間である。
 客と共に同衾している女もいれば、早朝に客を送り出して、手脚を伸ばしてゆっくりと眠っている女もいる。その時刻、白妙が血相を変えて、おしがのやり手部屋に飛び込んできたのがすべての始まりであった。
「おしがさん、おしがさん、大変だよう」
 丁度、一服やっていたおしがは大仰に眉をひそめて見せる。
「何だえ、朝っぱらから騒々しい妓(こ)だねえ」
「だって、あたしの大切な笄が無くなっちまったんだよう」
 廓言葉を使うことを忘れ果てた白妙に、おしがは、ほろ苦く微笑した。
「白妙さん、幾ら取り乱しちまっても、あんたは仮にも部屋持ちの身分だ。言葉遣いに気をつけな」
 たしなめてやると、白妙は小さく肩をすくめた。
「申し訳ありんせん。けど、失くなりんしたのが、松風姐(ねえ)さんのくれなんしたお品、それゆえ、あちきはもう哀しうて、どうしたら良いか判らんようになりんした」
 そう言うと、さめざめと泣く。
「何だって、松風花魁の形見の品だって? そりゃア、大変だねえ。で、どんな笄なんだい?」
 おしがの問いに、白妙は泣きじゃくりなが訴える。
「蝶の形をした、銀細工の笄でありんす。きらきら光る石が羽についていて、それはもう見事なもので」
「フム。それは、このあたしも見たことがある。花魁が初めて自分で買いなすったものってことで、随分と大切にしていたっけ」
 その時、おしがはふと妙に思った。
 松風はあの笄を滅多に使わなかった。花魁にまで上りつめて、初めて自分で買ったものゆえ、殊更、思い入れもあったのだろう。そんな大切な笄を果たして、白妙なぞに与えるだろうか―。
 松風は妹女郎たちを区別することはなかったが、内心では、頭も良くないくせに、小狡くて人を出し抜くことばかり考えていた白妙を嫌っていたはずだ。そのことを、おしがはよく知っている。そんな白妙に、松風が大切な笄をあっさりとくれてやったとは、どうにも信じがたいような気がするのだ。
 おしがが考え込んでいると、白妙の窺うような眼が見つめていることに気付く。
 全っく、嫌な眼をする妓だと心の中で毒づく。一瞬でも隙を見せれば、相手の喉笛に喰らいついていこうかというような抜け目のない眼だ。
「おしがさん、あちきはこんなことは言いたくはありんせんが、あれほどの高価な品でありんす、もしや誰かが盗ったとも考えられなんす。どうか、お願いでありんすから、見世の者たちをひととおり詮議しておくんなんせ」
「何だって、あんたは、うちの見世の中にあんたの笄を盗んだ盗っ人がいると、そう言うのかい。そいつは穏やかじゃないし、聞き捨てもならないね。あんたがどうしてもっていうのなら、調べてみないことはないけど、万が一、何も出てこなかったら、どうするつもりだえ? 疑いをかけて済まなかったのひと言では済まされるようなことじゃないよ?」
 少し脅すように言ってやると、白妙は何故か妙に自信ありげな口調で断じた。
「あちきは何も同じ女郎仲間がやったとは言ってはおりんせん。廓(ここ)にいるの女郎だけではありんせん。下働きの女たちもおりんす」
「白妙さん、妙に自信があるような物言いだねえ。マ、良いだろう。そこまで言うのなら、あんたの望みどおり、詮議してやろうじゃないか」
 おしがはそう言うと、楼主の甚佐に事の次第を報告、ついで、上は東雲花魁から下は廻し女郎(大部屋女郎)、果ては若い衆まで一人一人をやり手部屋に呼び、詮議を行った。