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天つみ空に・其の五~白妙菊の約束~

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「女って生きものは―いや、人間って生きものは、つくづく哀しいもんだねえ。誰だって、こんな吉原くんだりまで流されてきて男の慰み物になるなんざァ、真っ平ご免だと思うのは判ってるのに、亭主に売られ、親に売られ、身体を売らなきゃならない羽目になっちまうんだから」
 おしが自身、この花乃屋で女郎奉公を続けたという経緯がある。客を取らなくなり番頭新造を経て、今のやり手になった。この見世にもう十年以上奉公する同じ女中仲間のおくみに聞いたところによれば、おしがは亭主持ちであったという。亭主は腕の良い大工であったが、足場から落ちたときの怪我が因(もと)で、二度と仕事ができなくなった。
 そのため、鬱々として引きこもりがちになっていたのが、次第に気慰みに賭場に出入りするようになった。賭場で作った借金がかさみ、どうにもならなくなって、女房のおしがを遊廓に売り飛ばしたのだ。
 亭主との間には倅が一人いたというが、おしがが花乃屋にいる間に、亭主は賭場での諍いに巻き込まれて亡くなり、倅は行く方知れずになった。今でも生きているのか死んでいるのかさえ定かではない。
 多くの女郎が年季明けを待たずして亡くなるという悲惨な運命を辿るにも拘わらず、おしがは無事に年季明けを迎えることができた。しかし、その時既に、亭主も倅もいなくなっていた―。どこにも行き場のないおしがはそのまま見世に残り、やがて、やり手となった。
―亭主に売られ、親に売られ、身体を売らなきゃならない羽目になっちまうんだから。
 しまいのひと言が殊にお逸の心を抉った。
 信じている者に裏切られることが、どれほど辛く哀しいことか。お逸だとて、江戸でも屈指の大店肥前屋の一人娘として父親に何不自由なく甘やかされて育った。幸せな日々は父の突然の死によって奪われ、父の残した多額の借金のかたに危うく女衒に売られるところだったのだ。
 その窮地を救ってくれたのが父の長年の親友伊勢屋清五郎であった。清五郎は借金をすべてきれいに返済したばかりか、お逸を伊勢屋に引き取ってくれたのだ。
 しかし、養女として迎えられると聞いていたのに、実際には妻として入ることになっていた―。それでも、お逸は清五郎を信じていた。事実、清五郎はお逸を約束どおり娘のように扱ってくれたし、お逸は肥前屋で暮らしていた時分のように気随気儘なお嬢さまとしての暮らしを送っていた。
 だが、そんなある日、手代頭の真吉と恋に落ちてしまった。女中のおみねが清五郎にお逸と真吉の仲について、あることないことを吹き込んだせいで、清五郎が嫉妬のあまり、お逸を手込めにしようとしたのだ。
 危ういところを辛うじて逃れたお逸は、真吉と二人で伊勢屋を出た。そして、身を隠した先が吉原であったというわけだ。お逸を手込めにしようとした時、清五郎は耳許で囁いた。
―誰がちゃんとした利益も得もないのに、ただの親切心だけであれだけの借金を肩代わりなんぞするものか。お前という戦利品を得ることができるからこそ、私は金を出してやったのさ。
 清五郎のこの言葉は、お逸の心を打ち砕いた。父の良き理解者、幼いお逸を膝に乗せて遊んでくれた清五郎は、お逸にとって兄のような慕わしい存在であった。その清五郎が突如として豹変し、襲いかかってきたのだ。
 あまつさえ、静謐な表の顔と裏の顔―ひと度タガが外れたら、常軌を逸するほどの変貌ぶりを見せる―を持つ男だと知ってしまった今、お逸の中に清五郎に対する信頼は微塵もなくなった。そんなお逸だからこそ、そのときのおしがの何げないひと言にハッとしたのである。
 頼りとする真吉とは、ゆっくりと言葉を交わす機会すら、ままならず、早朝から深夜まで働きどおしの毎日が続いている。吉原に潜入するに当たり、炭で膚を黒く染め、眉もわざと太く濃く見せるように描いたのが幸いして、誰もお逸の本当の姿を知る者はいない。炭のように真っ黒で薄汚れた醜いたどん娘と半ば哀れみと嘲笑の混じった眼で見られている。
 もっとも、だからといって、見世の者がお逸に辛く当たったりするわけではない。松風がいた頃は、何故かお逸を可愛がる松風への当てつけか、東雲がお逸を眼の仇のように苛めることもあったのだが、松風のいない今、東雲は以前とは別人のようにお逸に対しても優しくなった。
 東雲が態度を軟化させたその裏には、二人の花魁の間で交わされた会話があったからに相違ないが、お逸がその事について窺い知るはずもない。
 ただ、廓を去る間際、松風はお逸に言った。
―お父さんは物判りは良いお人だけれど、腹の内では何を考えているか判りいせん。
 あのひと言が何故か心の底に引っかかっている。普段は殆ど顔を見ることさえない楼主甚佐だが、たまに廊下などですれ違うときにお逸に向けるまなざしは冷え冷えとし、あたかもお逸の仮の姿なぞとっくにお見通しだといわんばかりの鋭さを帯びているようにすら見える。
 むろん、それは、お逸の考えすぎに違いないと判ってはいるのだけれど。
 判ってはいても、底の知れぬ不気味な男―というのが、お逸の甚佐に対する見方だ。できれば、あんな人物とは拘わり合いたくないと思う。あんな、何もかもを見透かすかのような冷たい眼に射竦められるのは嫌だった。
 松風花魁は、また、こうも言ったのだ。
―おしが婆さんは小うるさいが、見かけよりは存外に人は好い。このことも知っていて、損はないと思いんすよ。
 おしがのいつになくしんみりとした述懐は、松風の言葉がけして間違いではないことを示している。口うるさくて、遊女たちからは情け容赦のないやり手だと怖れられているおしがだが、その素顔は思っているよりは人間らしいのかもしれない。少なくとも上辺は物腰もやわらかで優しげに見える楼主よりは。
 お逸は、思いがけぬおしがの一面を見て、改めて松風の残した忠言を思い出したのだった。

     《其の弐》

 その数日後。お逸がいつものように見世の廊下という廊下を拭き終えたときのことだ。
おしまいに二階の廊下を拭いてから、やっとひと心地ついた気がして、何げなく視線を動かしたお逸の眼に、階段の中ほどにうずくまる人影が映じた。
 肩の下で切り揃えられた髪、紫の華やかな小袖は禿―しかも引っ込み禿のお仕着せである。どちらかといえば小柄な紫乃にひきかえ、妙乃は子どもにしては大柄だ。ゆえに、そこにいるのが妙乃であることはすぐに知れた。
 お逸は、まだ妙乃と直接に話したことはない。父や母と引き離され、たった一人で妓楼に売られてきた少女は、まだ十一歳であった。
 さぞ心細く辛い想いをしているのではないか、そう思って声をかけようとして、すんでのところで言葉を呑み込んだ。
 妙乃が泣いていたのだ。小さな肩を震わせ、必死で嗚咽をこらえていても、泣き声が低くお逸のいる場所にまで聞こえてくる。
 お逸は声をかけるにもかけられず、ただ息を呑んで見つめるしかない。妙乃は胸に何かを抱きしめて泣いているようだ。と、妙乃がふと弾かれたように顔を上げた。人の気配に気付いたのかもしれない。