カエルと影送りに関する四方山話
人間の身ぶりや言霊には、それらを呼び寄せる力は必ずと言っていいほど存在する。ならば神や物の怪の類がこの世に頻繁に現れそうなものであるが、そこはよくできているらしい。確かに言霊や身ぶり手ぶりには魔力が宿るが、その小さな魔力程度では神魔を召喚するに力不足なのだ。
『まだ、要因がある筈だ。まず考えられるのは、花子、君がその類のモノに好かれやすい体質をしている、というのがあげられるだろう。あと一つか、二つくらい条件が重なれば……』
「雲隠れ……というのはどうでしょう」
確かあの時、太陽が入道雲の影に隠れたはずだ。
『なるほど、雲隠れか。神隠しに雲隠れ。雲と神には親和性がある。雲の上には神が住むからな。そして同じ隠の文字を当てられているのだから、要因として考えられる』
しかも、同じ読みを持つ文字に陰というものがあり、これはカゲとも読める。意味も隠と大体同じだ。ならば、キーワードは影送り、雲隠れ、そして神隠し、影と陰だ。
ただ単純に同じ方法で戻れるとは思えないが、とりあえず試してみる。
雲に太陽が隠れるタイミングを見計らって、影を送る。
無論、そうそう上手くいくモノでもない。
さてさて、どうしたものか。私とアマミさんは頭を抱える。
私は自分と雲の影を空に送った。そして、その直後に雲が太陽を飲み込んだ。その結果、私たちはここにいる。キーワードはこれで合っているはずだ。
影を空に送ってここに来たのだから、何をどこに送れば元に戻れるのだろうか。
そもそも影を送った筈なのに、送られたのは私たち自身だ。
『第二の魂、魂の一部、ドッペルゲンガー……自分の影を見るっ!』
自分の中にある影に関する知識をパニクった未来のネコ型ロボットのように放り出していたアマミさんは、ふと、そう言って考えるのを止める。
「何か不穏な言葉を呟いていましたが、一応聞きます。本当は聞きたくありませんが、そうしないと話が進まないので私は現実を直視します」
『うむ――どこかの文化圏の話でな、自分の影を自分で見ることを、死を目の前にしている状態としているとか。ドッペルゲンガーなんてその兆候が顕著でな、ドッペルゲンガー――自分自身の影を見てしまうことにより、見たモノは死ぬ。これは同じことが起きているのではないか? しかも空の上、要は天国に自分の影、魂の一部とも言われるものを送っているのだから、まあ、そういうことなのだろう』
「うわぁ、聞きたくなかったのです。つぅことはアレですか。ここは死後の世界と、そういうことなのですか」
『そういうことになるな』
衝撃の事実。私たちは既に死んでいた。洒落にならん。
「まだ若いのに死にたくないのです。どうにかしやがれなのです」
『相変わらず花子は余裕がなくなると口が悪くなるな。そこは悪いところだとおい止めろ何爆竹を用意しようとしているっ!』
カエル爆竹。イマドキの若者はやったことがあるのだろうか? 最近カエルを見かける機会も減ったというのだから、カエル爆竹を見る機会も減っているのだろう。
『こほん。さておき、イザナギ然り、ヘラクレースに然り、あの世に行って戻ってきた神話は少なくない。方法はある筈だ』
それなら良いのですが。
『まあ、あちらの身体が持つのならばな。ここが死後の世界なら、身体はあっちにある筈だ』
「早く戻りましょう。急いで戻りましょう」
生き返ってみたらあら不思議、酸っぱい匂いのするリビングデッドが一人と一匹、なんてのは生物災害的なシューティングゲームだけで十分だ。しかもこのクソ暑い時期だ。カエルも人体も生ものには変わりないのだから、非常に心配だ。
『ここが黄泉なら、桃の木を探すのだが。そういうわけでもないみたいだしな』
「桃の木の生えた坂が黄泉の出口でしたっけ。確か、ヨモツヒラサカ」
ここがそのような場所とは思えない。
『光の中でこそ、影は強調される。ここが影の世界だというのなら、それも真なのだろう』
「影の世界、冥府ですか」
こりゃいよいよ死後の世界じみてきた。遺書でも用意しておけばよかった。
いや、いやいやいや。諦めるには早すぎる。閻魔さまの前まで生き汚く、というのが私の座右の銘だ。
まあ、大体どの作品でも一度影を手放したら、その人間の元に影が戻ってくることがない。精々ピーターパンくらいだろうか。
影を戻すことはできない。だが、視点を変えるとどうだ?
例えば、影の元に戻る。いや、そもそも私たちの方が影だ。だったら、私たち『影』が身体に戻るのだ。
「戻る……もっと言えば――」
ふと、頭の上に乗っているモノに意識が向く。
要素は捕まえた。ただ、これでいいのか分からない。だけどまあ、他に方法も思いつかないし。下手な鉄砲数撃ちゃ当たると言うし。
「アマミさん。このままうじうじしていても仕方ありません。とりあえず、その辺を散策してみましょう。何か感じるところはありますか?」
――結果は、まあ説明するまでもないだろう。
暑い。雲から再び顔を出した太陽が、私の頭をじりじりと焼いていく。
車が私の横を走り去ってゆく。遠くから子供の無邪気な笑い声が聞こえてくる。
『――何故、戻れたんだ?』
「それはですね、アマミさんがカエルであるからです」
――後に調べて分かったことだ。
江戸時代の本草学者、及び儒学者である貝原益軒の『大和本草』には、カエルの命名に関する記述がある。カエルという命名は、『カエルが違う土地に移動させても元の土地に戻る、帰るため』であるという主張がなされているのだ。
大和本草の言葉を信じたワケではないが、今でもカエルというのは『返る』または『帰る』という言葉に掛け合わせられる。アマミさんは言った。手を洗う、足を洗う、もっと言えば生活そのものが呪術行為に繋がっていると。
――ならば、言葉遊び、それは一つの呪文、言霊足るのではないだろうか?
条理は不条理、不条理は条理。こちらの世界の不条理はあちらの世界の不条理であり、あちらの世界の条理はこちらの不条理だ。納得できないモノであっても、それに理由があるのであれば起こりうるのが異世界なのだ。
『――?』
アマミさんは首を傾げる。私はその様子を笑いながら、貴幸の姿を探した。
作品名:カエルと影送りに関する四方山話 作家名:最中の中