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神さま、あと三日だけ時間をください。~Last Scene~

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 一体、何の不足があったのだろう。やはり、子どもができなかったのが原因なのだろうか。二ヶ月前、久しぶりに美海を抱いた。もう二年近くもの間、妻とのセックスはご無沙汰していたせいかどうかは判らないが、あの夜は燃えに燃えた。
 以前はどれだけ身体を重ねても一向に燃えない妻を、琢郎は物足りないと思っていた。しかし、久しぶりに味わう妻の身体は三十九歳という年齢を感じさせないほどみずみずしく官能的で魅力的だった。
 あれほど良いセックスができるのなら、何も妻がいるのに、わざわざ風俗なんて行く必要もない。琢郎はそれからは何度か美海にアプローチをかけたものの、その度にさりげなく交わされた。
 思えば、二日前の夜も琢郎が抱こうとすると、あれほど嫌がったのも、他の男と不倫していたからなのだろう。
「俺も馬鹿な男だ」
 琢郎はもう一度、繰り返した。
 妻が不倫をしている。以前の自尊心の強い琢郎なら、知った段階で美海を殴りつけ、離婚届を突きつけてやっただろう。
 だが、妻の心が自分にはないことを知りながら、琢郎はそれでも妻を手放したくないと思っている。
 自分は美海を愛しているのだ。いや、愛しているという言葉では足りないほど、惚れに惚れていると言っても過言ではない。それは単に、美海とのセックスがこれまでになく極上のものだと気づいたからだけではない。
 琢郎も男だし、人並みの欲望はあるから、もちろん、妻とのセックスに大いに未練を感じているのも理由の一つではある。しかし、それ以上に、琢郎の心が美海を求めているのだ。 
 結婚十一年目で、しかも妻の心が自分から離れ始めていると知って漸く気づくとは因果なものだ。
「本当に馬鹿だな」
 琢郎は呟き、手にしたブランデーグラスを傾け、クイッとひと息に煽った。
 サイドテーブルの写真には、小さな銀縁の写真立てが載っている。小さな枠の中では凛々しいタキシード姿の花婿と初々しいウェディングドレスの花嫁が寄り添い合っている。
 二十八歳の美海はこれ以上はないというほど幸せそうに微笑み、琢郎も満足げな面持ちだ。ハワイで二人だけの挙式をあげたときの美海のお気に入りの写真だ。
 親戚や親の手前、披露宴は国内の有名ホテルで行ったものの、挙式は美海の望み通りハワイの教会で挙げたのだ。
 二人の背後にはどこまでも続く蒼い海と白いビーチがひろがっている。世界でいちばん幸福な花嫁の笑顔を南国の太陽が眩しく照らし出していた。
 自分たちは、いつからここまで心が離れてしまったのか。このフレームの中にあるのは、自分たちがまだ幸せだった頃の残骸でしかない。
 恐らく自分にも責任はあるのだろう。結婚してからは自分の気持ちや要望を一方的に押しつけるだけで、美海の心を推し量ってやったことはあまりなかった。
 もし、やり直しが今からでもできるというのであれば、自分はどんな努力でもするつもりだ。元々がワンマンで俺さまな性分なので、理想的な夫になれるかどうかまでは自信がないが、これまでのように美海を一人ぼっちにしたり、我が儘な要求を押しつけたりはしない。美海の心をもっと思いやって、時には労りを行動や言葉で示すことも必要だろう。
 町のあちこちできらめく灯り、あの一つ一つに家族の、人の営みが象徴されている。あの灯りの下に家族が集っているのかと思えば、ここからではかすかな光の点滅にしか見えない小さな灯りにも温もりが感じられた。
 両親がいて、子どもがいて、そんな当たり前の家族のかたちをもう自分は長い間、忘れていた。その瞬間、彼は結婚して初めて、心から子どもが欲しいと思った。
 美海によく似た可愛い赤ん坊をこの手に抱いてみたいと切実な祈りにも似た想いが奥底から迸るように湧き上がってくる。
 俺は今、最も大切なものを失おうとしている。このまま手をこまねいていれば、美海は砂が指の隙間から零れ落ちてゆくように、するりと琢郎の手から抜け出して消えてしまう。
 琢郎は静かな決意を秘めた瞳で、いつまでもフォトフレームを手にとって想い出の写真を眺めていた。

 絶対に眠れないと思っていたのに、それでも明け方になって浅い微睡みにたゆたったらしい。
 早朝のまだ蒼さを残した空気をつんざくように、携帯電話のアラームが鳴った。美海は慌てて飛び起きる。傍らにはシュンが腹ばいになった格好で煙草を吸っていた。
「ずっと起きてたの?」
「うん。君の寝顔を見ていたかったからね」
 さらりと寄越された言葉に、美海の心はまた切なく疼き揺れた。
「何か食べる? ルームサービスでも取ろうか」 
 最後の最後まで、シュンは優しい。美海は泣きたくなるのを堪え、笑顔で首を振った。
「お腹に赤ん坊がいるのに、何か食べなくちゃ駄目だぞ」
 結局、一時間後にホテルを出て、眼に付いたファミレスでトーストとコーヒーだけの簡単なモーニングを食べた。
 もちろん、食欲は殆どなくトーストを辛うじてコーヒーで流し込んだだけだった。それから折角だからと少し歩いて最寄りのお寺に脚を運んだ。
 そこは開創は室町時代だという由緒ある古刹であった。境内そのものは広くはなく、本堂は既に焼失してない。敷地には往時の立派さを偲ばせる鐘堂がぽつんと建っていた。
 鐘つき堂の側に由来を記した立て看板がある。読んでいくと、この寺は元は尼寺だったらしい。後醍醐天皇の寵愛を受けたという女官が建てたものだという。後醍醐天皇といえば、政変で朝廷が分裂した際、南朝方として京都から吉野へと逃れ、吉野朝廷を築いた人物として知られる。
 女官名を安擦使(あぜち)大納言(だいなごん)典侍(のすけ)と呼ばれたその女人は帝との間に皇女まで儲けたものの、帝が都を追われる際に別れ、一人でこの地に流れ着いた。以後は皇女を育てながら仏道に明け暮れる日々を過ごし、六十有余歳で亡くなったと伝えられる。
 堂内にはちょっとした空間があり、片隅に祭壇が見えた。色褪せた朱塗りの厨子には、小さな弥勒菩薩がひっそりと安置されている。この御寺の本尊であり、本堂が昭和の時代に火災で焼け落ちた後も唯一、焼け残ったというものだ。
 口伝によれば、出家して法明(ほうみよう)尼と名乗った大納言典侍の持仏であったという。最近になって、X線写真を使った調査から、仏像の体内には巻物状の紙が幾枚か納められていることが判明した。その紙はどうやら、吉野の後醍醐帝が典侍に宛てて送った書状らしい。
 信頼していた足利尊氏に裏切られ、吉野に逃れるしかなかった数奇な運命の帝とその恋人の悲恋が偲ばれる逸話だ。
 美海は仏教については殆ど知らないけれど、弥勒菩薩は悩める衆生を救ってくれると聞いたことがある。確かに柔和なそこはかとなき微笑を見ていると、何の根拠もないのに、心が自ずと癒され軽くなってゆくようだ。
 たとえどのような悪行に手を染めていたとしても、この仏ならば自分を許してくれそうな印象すらある。
 祭壇の前には賽銭箱があり、殆ど燃え尽きた線香がまだかすかに白い煙を立ち上らせていた。自分たちの前にも、誰かがお参りしたのだろう。
 シュンは財布から小銭を出し、賽銭箱に入れている。何を考えているのか、真剣な横顔で熱心に祈っていた。