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神さま、あと三日だけ時間をください。~Last Scene~

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 美海もシュンに倣って、百円玉を二つ入れた。しばらくそこにいて、鐘堂の外に出ると、眩しい夏の太陽が二人の眼を鋭く射る。まだ午前中だというのに、はや油照りの太陽がうなじを灼き、首筋を汗が流れ落ちる。
「シュンさんは何をお願いしたの?」
 何気なく訊ねると、彼は微笑んだ。
「今度、生まれ変わってもミュウとめぐり逢わせて下さいってお願いしたんだよ。それから、君に無事、元気な赤ちゃんが生まれますようにって」
「―」
 最早、何も言えなかった。
「後は少し我が儘かもしれないけど、今度、生まれ変わったときには君と同じ歳くらいで、他の誰よりも真っ先に君に出逢わせて下さいって頼んどいた」 
 美海はシュンを真っすぐに見つめた。
 こうやって別離を引き延ばしにしても、互いのためにはならない。
 辛いけれど、ここで別れた方が彼のためにも良いのだ。
「それじゃあ、ここでお別れしましょう」
 シュンの切なげなまなざしが揺れた。
「―判った。俺もいつまでもミュウといたいけど、未練たらしい男だと最後に嫌われるのもいやだし、ここで別れるよ」
 気丈にも彼は微笑んでさえ、いた。
「ごめんなさい、そして、ありがとう」
 美海はありったけの想いを込めて彼を見つめる。
 あなたと出逢えて、私は幸せだった。
 そう言いたいけれど、今、その言葉を彼に告げたところで、かえってシュンを苦しめるだけだ。
 シュンは哀しげな微笑みを浮かべているだけで、何も言わない。美海も微笑み返し、ゆっくりと背を向けた。
 と、ふいに後ろから手首を掴まれた。
「行くな」
「シュンさん」
 涙が溢れそうだ。だが、ここで泣いてはならない。彼を傷つけ去ってゆく自分には、涙を見せる資格もない。
「本当に行くのか? 俺たちはこれで終わりなのか」
 振り向いてはならないと思うのに、つい振り向いてしまった。
 何かに耐えるような表情、悲痛な声。
 彼のすべてが心に迫ってくる。
 美海は泣きたいのを堪え、微笑みを浮かべた。
「今日という日が過ぎたら、あなたを忘れるわ。だから、シュンさんも私のことはきれいに忘れて」
 言うだけ言うと、美海は小走りに走った。
 涙が次々に溢れてきて、止まらない。
 忘れられるはずがない、忘れられるはずがなかった。でも、これが最後だから、彼に幸せになって欲しいと思うからこそ、心にもない科白を口に乗せなければならなかったのだ。
 心と身体がバラバラになりそうだ。
 
 神さま、もし一つだけ願いが叶うのなら、私にあと三日間だけ時間を下さい。
 一日めは彼の奥さんになって、
 二日めは彼の子どもを生み育てて、
 三日めはお婆ちゃんになって共白髪になるまで、彼の側にいたいのです。
 だから、私に三日だけ下さい。

 あの小説のラストシーンが鮮やかに甦る。
 美海は泣きながら走った。


 シュンとの身を切るような別離の後、美海は周辺の幾つかの寺を巡った。一生の想い出になるであろう至福の時間を過ごした場所であり、もう二度と来ることもないであろうI町。
 未練だとは思ったけれど、せめてもう少し、この地にいたかったのだ。いにしえびとの想いと哀しみがつまった史跡を巡り、やっと下りの電車に乗り込んだ時、I駅の時計は三時前を指していた。
 電車に揺られること三時間余りで、美海を乗せた普通列車はN駅に到着する。住み慣れた町、よく利用する駅の光景を眼にした刹那、美海はいつにない疲れを憶えた。
 すべては終わったのだ。
 鉛のように重たい身体を意思の力だけで動かすようにして駅の陸橋を渡り、改札口へと向かう。階段を下りてくる途中、改札口が眼に入った。
 改札口の前に立って、琢郎が所在なげに往来を見ている。時折、背後を振り返り、電車が到着する度に吐き出されてくる人を見ていた。明らかに人を探しているようで、いちいち側を通る人の貌を見ては、はっきりと落胆の表情を浮かべている。
 と、上りの電車が着いて、また、纏まった数の乗客が降りてきた。小柄な女性が改札口を抜けて外に出た瞬間、琢郎が側に駆け寄った。短い会話を交わした後、〝人違いでした、済みません〟と、しきりに謝っている。
 白いブラウスと淡いブルーのセミフレアースカート、髪型までセミロングで、確かに、ちょっと見には美海によく似ている。
 その様子を見て、美海は訳もなく泣きたくなった。
 ああやってもう何年も、あの場所で待っていてくれたような気がする。もし美海がシュンと共に行く道を選んだとしたら、琢郎はあのまま一晩中、ああして待っていただろうか。
「ただいま」
 近づいて声をかけると、琢郎は待っていたはずなのに、ギクリとしたような表情で美海を見た。
「お帰り」
 琢郎が少し迷う素振りを見せ、ひと息に言った。
「三日前の夜は済まん。俺も少し性急すぎた。美海が嫌がるときは、もう無理強いはしないから」
「私もあなたに話したいことがあるの」
 美海が言うと、琢郎は露骨に警戒の様子を見せた。
「何だ? 帰るなり、話さなくちゃならないほど大切なことか?」
 まるで毛を逆立てる猫のような夫に少し違和感を憶えながら、美海は小さな声で告げた。
「赤ちゃんができたみたい」
 しばらくポカンとしていた琢郎がやがて声を上擦らせた。
「ほ、本当なのか?」
「ええ、今朝、検査薬で調べてみたら、ちゃんと陽性が出てたから、間違いはないと思うの」
「今、判ったということは、二ヶ月前にできたんだな」
 たぶん、と、美海は恥じらいながら頷いた。
 この時、琢郎があからさまに安堵の表情を浮かべたことに、美海は気づかなかった。
 まさか、男と一緒だったのなら、不倫相手と泊まった旅先で、妊娠検査薬など買って妊娠を調べはしないだろう。同窓会と嘘をついていたのも、たまには家庭も何もかも忘れて、一人でゆっくりしたいという主婦らしい願いだったのではないか。
 大体、琢郎という男は気難しい割には、とても単純なところがあった。何でも突き詰めて考えるのは苦手で、楽観的に物事を考える傾向がある。
 琢郎は妻が不倫をしていたのは、やはり、気のせいににすぎなかったのだと安易に結論づけたのだが―、結果としては、それが二人を救うことになった。
 また、琢郎自身が〝妻は浮気などしていなかったのだ〟と信じたかったという気持ちのせいもあるだろう。
「子どもか、子どもが生まれるのか。俺たちもとうとう親になれるんだな」
 琢郎の眼に光るものがあった。
「ありがとう、美海」
 琢郎のそのひと言は美海の心をついた。礼などついぞ口にしたことのない夫の心からの言葉だと判った。
「さあ、帰ろうか。お前も疲れただろう、これからは無理は禁物だ」
 琢郎が黙って美海のボストンバッグを受け取った。先に歩く大きな背中を見ている中に、またしても涙が溢れてきた。
 自分は、この男と共に生きてゆく道を選んだ。すべては終わったのだ。
 醒めない夢はなく、夢にはいつか終わりが来る。
 美海は夫と並んで歩きながら、やっと帰ってきた現実の世界へと一歩脚を踏み出した。


 その夜、今日という日から明日へと日付が変わる瞬間、美海は携帯電話のメール履歴やシュンと撮った画像データをすべて消去した。