神さま、あと三日だけ時間をください。~Last Scene~
図らずも、そのことがシュンの理性を呼び覚まし、いつもの彼らしさを取り戻させたようだ。
美海は片手で口許を覆った。
「気分が悪いの」
「気分が悪い?」
シュンが気遣わしげに覗き込むと、美海はコクコクと頷いた。
「物凄い吐き気がして」
刹那、シュンの切れ長の眼が美海を射るように大きく見開かれた。
「―」
しばらくシュンは眼を見開いたまま、美海を惚(ほう)けたように見つめていた。
「ミュウ、四日前に逢った時、君はもうふた月近く、その吐き気が続いていると言ってたね?」
「そう―だけど」
美海はまだしつこく襲ってくる吐き気を堪えながら、ようよう頷いた。
「俺はまだ全然、そういう経験はないからよく判らないけど、君、妊娠しているんじゃないのか?」
予期せず投げつけられた科白に、美海が固まった。まるで脳天から強い電流が駆け抜けたかのような衝撃が全身を貫いた。
「妊―娠?」
馬鹿な、そんなはずがないと咄嗟に思う。けれど、すぐに自分の読みが甘かったと悟った。
二ヶ月前の夜、琢郎に烈しく抱かれた一夜の記憶がまざまざと甦ってくる。確かに、あれから生理はずっと来ていない。五月半ばに最後の生理が来た後は、一度として来てないのだ。
でも、元々、美海は生理がそれほど規則正しいわけではなく、時にはふた月もめぐってこないこともあった。別に特に異常があるわけでもないので、婦人科を受診したときも治療の必要はないと言われていたのだ。
きっちりと決まっている女性ならば、もっと早くに気づいたのかもしれないけれど、美海の場合、いつものように少し遅れているだけだと軽く考えていた。
しかも、あの夜は実に久しぶりに夫に抱かれたのだ。不妊治療を断念してからというもの、琢郎は殆ど美海に触れることはなくなっていて、夫婦の営みは絶えて久しかった。
もし本当に妊娠したのだとしたら、あの夜以外に考えられない。
それにしても皮肉なものだった。琢郎と結婚して十一年の歳月が経ち、焦がれるほど子どもが欲しいと願ったのに、子どもはできなかった。生理が来る度に、トイレにこもって泣いたのは一度や二度ではない。
それが、シュンとめぐり逢い、久しぶりに女としての胸のときめきや高鳴りを思い出した途端、妊娠するなんて。
いや、彼と出逢い系サイトで出逢ったときには、もう美海の胎内の奥深くでは新しい生命が息づいていたのだ。美海がそもそも出逢い系チャットの掲示板を開く羽目になったのも、あの直前に琢郎にセックスを強要されたのが原因だった。辛くて、どうしようもなくて、やりきれない気分だった時、シュンのメッセージが眼に飛び込んできたのだ。
琢郎とのことがなければ、美海がサイトを覗くこともなかっただろうし、シュンのメッセージを見つけることもなかった。
シュンとの出逢いには、始まりから別離が透けて見えていた。そのことに二人ともに気づかなかった。それが不幸の始まりだったのかもしれない。
それから美海はシュンと共に再びフロントまで戻り、近くの薬局とコンビニまで行った。シュンに引き裂かれてしまったブラウスの代わりになりそうな安物のブラウスをコンビニで買い求め、それから薬局に寄った。
買い物にはパジャマ代わりの部屋着として持参していたTシャツを着た。
ブラウスの入ったビニール袋と小さな紙袋を抱えて三階の部屋に帰ってきて、美海はトイレに入った。小さな薬局で買い求めたのは、簡易妊娠検査薬だ。尿検査だけで、ほぼ百パーセントの割合で妊娠しているかどうかが判る。
反応が出るまでに数分はかかるので、美海はしばらくじいっと待っていた。以前もこのタイプの検査薬なら、何度か使ったことがある。もっとも、その度に反応は全くなく、美海は声を殺して泣く羽目になったけれど。
反応が出る間、美海は眼を閉じていた。数分が経過した。小さなスティック状の検査薬を握りしめていた美海はゆっくりと瞼を開き、検査薬を見つめた。
検査薬の反応窓のところには、くっきりと陽性を示す赤紫の線が現れていた。
言葉にならない感情が美海の中に込み上げた。シュンに心を傾けてしまった今、琢郎の子どもを身籠もったことが果たして幸せなのか、判らない。ずっと欲しいと願っていた子どもだった。
美海は静かにトイレから出た。美海を見て、シュンが物問いたげな視線をくれる。
美海は消え入りそうな声で告げた。
「シュンさんの言うとおりだったみたい」
そのときのシュンの表情を美海は一生、忘れないだろうと思った。
妊娠を告げたときのシュンの端正な面には、実に様々な感情がよぎっていった。戸惑い、諦め、怒り、落胆―。
シュンは泣き笑いのような表情で呟いた。
「そっか。おめでとうって言うべきなんだろうな」
シュンは言い終わらない中に、しゃべり出した。
「俺には上に二人の姉貴がいるんだ。どっちもとっくに結婚して子どももいる。姉貴たちが妊娠してたときに、結構悪阻が烈しくてさ、上の姉貴なんて殆ど何も食べられなくて入院して点滴までしたんだ。下の姉もそこまでじゃないけど、里帰りして悪阻が治まるまでは養生してたから。君の様子がそのときの姉貴たちにそっくりだった。だから、まさかとは思ったけど、妊娠してるんじゃないかと思ったんだ」
確かに、大切なことだから、すぐにでも薬局にいって確かめた方が良いと言い出したのはシュンの方だった。
シュンは、まるで沈黙を怖れているかのようにしゃべり続ける。
「生まれてくる赤ん坊から、父親を取り上げちゃいけないよな。それとも、俺が父親になっても良い?」
美海は何も言えなかった。シュンもまた敢えてその話を続ける気はなかったらしい。それは最初から美海が応えを返さないのを承知で、その話を持ち出した風にも見える。
その夜、美海とシュンは一つのベッドで眠った。ナイトテーブルのスタンドが照らす室内は淡い闇に満たされている。寄り添い、手と手をしっかり繋ぎながら、二人は飽きることなく色々な話をした。
小さな頃のこと。これまで生きてきた中で経験した嬉しいこと、哀しいこと。
美海もシュンと出逢ってから初めて自分のことについて話した。もちろん、琢郎との出逢いや結婚生活については触れず、少女時代やOLとなってからの話に限られたが。
これ以上は喋れないというまで語り尽くした後は、ただ黙って手を繋ぎ合っていた。
「初めてデートした日のことを憶えてる?」
黙り込んでいたシュンが突如として沈黙を破った。
美海は彼の傍らに横たわり、繋いだシュンの手を空いた方の手で無意識の中に撫でていた。
「よく憶えてるわ」
「あの日の別れ際、俺が何か君に訊こうとしたよね」
「ええ」
「あの時、君の胸許には、はっきりとキスマークがついていた。あれを見た時、俺は物凄く嫉妬したよ。俺の大好きな君をいつでも好きなようにできる男がいるんだって思い知らされた気がしたんだ。同時に、君にご主人がいることも知った」
シュンはひとたび言葉を句切り、淡々と続ける。
「あの日、俺が一旦は君に投げかけた問いをすぐに引っこめたのは、俺自身が真実を知るのが怖かったからなんだ」
作品名:神さま、あと三日だけ時間をください。~Last Scene~ 作家名:東 めぐみ