神さま、あと三日だけ時間をください。
美海はのろのろと身を起こし、ベッドから降りた。まるで自分が身体ごと灰になって燃え尽きてしまったかのような無力感と脱力感があった。
確かに琢郎の言うとおり、これまでになく感じた。絶頂というものも生まれて初めて味わった。よく女性雑誌の特集などで、〝女が感じる〟という表現を眼にするけれど、それが一体、どういうものか、実際に女体がどんな状態になるのか。
美海はこの歳まで知り得なかったのだ。
けれど、身体は死ぬほどまでの快感を味わったというのに、心は少しも満たされてはいなかった。むしろ、いつもの味気ないセックスの後よりも、更に酷かった。
背後では既に琢郎が気持ちよさそうな寝息を立てている。一人で満足して、女を思いきり悦がらせたと思い込んでいる男。男の思い上がりとエゴがその態度にも如実に表れていた。
美海は緩慢な足取りで寝室を横切り、廊下に出た。向かいのバスルームに入ると、シャワーの湯温を高めにして熱い湯を頭から浴びた。今夜の営みは確かに今までになく情熱的であったかもしれない。だが、互いにいたわり合う気持ちも優しさの欠片もなく、ただ獣のように荒々しく交わっただけにすぎなかった。
琢郎は、あんな行為で満足できたのだろうか。美海はただ自分がレイプされたように、身体だけを烈しく奪われたような気がしてならない。
涙がじんわりと滲んできて、美海は慌ててシャワーのノズルを顔に近づけた。熱い湯が今は涙を流してくれるのがありがたかった。
もう、私たちは本当におしまいなのだろうか。
今夜、何度も脳裏をよぎった哀しい予感が美海の心を凍らせた。
美海はともすればよろめく身体を意思の力で辛うじて支え、自室に戻った。四LDKのマンションは、リビングを挟んで琢郎と美海の部屋となっており、各部屋にはそれぞれ扉を開けて自由に行き来できる仕組みになっている。つまり、続き部屋のようになっているのだ。その他には寝室とキッチン。
これは短い廊下の向かい側に居並んでいる。二人が住んでいるのはN市のN町だ。ここはN市内では比較的、立地も良い高級マンションの部類に入る。今年、四十一歳になる琢郎は営業部長なので、それなりの収入はあるのだ。
まあ、このマンションは琢郎の給料では少し無理をしている感があるにはあるが、マンション完成前にモデルルームを見に訪れた際、美海がひとめで気に入ったのを見て、琢郎が即決したのだった。
自室に戻った美海は窓際の小さなデスクに座り、パソコンの電源をONにした。
まずは定期的に行っているメールのチェックだ。さして交友範囲の広くない美海宛にくるとすれば、不要なダイレクトメールか、大学時代の親友たちからの近況を知らせるメールしかない。
その日のメールは数件あったが、案の定、広告が殆どで、後は一通だけ私信があった。
―春紀が満一歳の誕生日を迎えました。皐月
大学時代からの女友達の一人、皐月からだ。
メールには画像が添付されていて、一歳になったばかりの愛息を八歳、九歳になる上の娘たちが取り囲むようにして写っている。
無邪気な子どもたちの笑顔に、何故か今夜だけは苛立ちを憶えた。
皐月は美海より一年先に結婚した。彼女もなかなか子どもに恵まれず、通院した経験を持つ。なので、結婚三年目に漸く長女に恵まれた後も、子どものいない美海の気持ちを理解してくれる数少ない友人の一人だった。
しかし、一年前に末っ子の男の子が生まれてからは、態度がガラリと変わった。皐月は年子で女児に恵まれたものの、どうしても男児を望んでいた。それが続けて娘が生まれた後は、いっこうに気配もなかった。再び病院に通って治療を受けた末に恵まれたのが去年、生まれた長男だったのである。
七年ぶりの出産に皐月は大騒ぎしていたものだが、それまでは子どものいない美海に遠慮して子どもの写真を送ってこなかったのに、今では毎日のように赤ん坊の画像つきのメールが送られてくる。
こういったものは、たまには良いものだけれど、それが毎日となると、流石に送られる方もうんざりする。
美海自身にも同じように成長を歓べる我が子がいれば話もまた別だろうけれど、幾ら望んでも自分には子どもができなかった。皐月だって、欲しくても子どもを持てない宿命の辛さは満更知らないわけではないだろうのにと、恨めしく思う気持ちにもなってしまう。
―旦那のお義母さんったら、私の顔を見る度に〝子どもはまだ?〟って訊くのよ。もう、本当にいやになっちゃう。
周囲からせっつかれるのを嘆いていたはずの皐月だけれど、三人の子の母となった今は、とうにそんな頃の気持ちは忘れているのだろう。
美海はカーソルを動かし、何か割り切れない気持ちのまま、その画像をゴミ箱に移動させた。最初の頃は、親友の大切な子どもたちの写真を棄てるのは忍びなかったし、たとえ相手が知らないとしても、後ろめたい気持ちになった。
友の幸福を素直に歓べない自分の心が狭いのかと自己嫌悪に陥った。しかし、毎日のように届く画像付きメールも保管場所に困るし、正直、美海がどれだけ子どもを望んでいたか知っている癖に、こんな無神経なことをする皐月の無神経さに愛想が尽きかけてもいた。
―春紀クンも元気そうね。また今度、お誕生日プレゼントを贈るわ。 美海
とりあえず返信を返し、今度はネットめぐりを始めた。これは、いつもやっていることだ。特に趣味も特技もない美海は、こうやって夜にはパソコンを眺めていることが多い。
まだしも趣味でもあれば、こうまで子どものいない淋しさを持て余すこともなかっただろうにと思わないでもない。だから、これまでにもパン作り教室、着付け教室と色々なカルチャースクールに参加したのだが、どれも長続きはしなかった。
琢郎に言わせれば、
―お前は忍耐と努力が足りないんだ。
ということらしい。
しかし、美海は大学を卒業してから、市内では有名なデパートに六年間勤務した経験もある。その間、上司の受けもそれなりに良かったし、勤務態度や能力も評価されていた。けして夫の言うように、自分が劣っているとは思わない。
とりとめもない物想いに浸りながら、あちこちのサイトを巡っている中に、いきなり画面が変わった。
「やだ、何、これ」
グーグルの検索画面を出していたはずなのに、いつのまにか変わっている。どこをどうクリックして、こんなところに辿り着いてしまったのだろう。訳もなく手を動かしてクリックを続けていたら、この体たらくである。
美海は眉を顰めた。今、眼の前にひろがっているのは出会い系サイトだ。
さっさと別の画面に切り替えよう―、そう思った瞬間、画面のトップにデカデカと書かれている紅い文字が眼に飛び込んできた。
―エロチャット、画像付き投稿掲示板。
チャットという言葉の意味を、美海はつい最近になって知ったばかりだ。まあ、インターネットで繋がり合った者同士がネットを通じてやりとりする、話し合いの場のようなものらしい。
ふと興味を引かれ、画面をスクロールさせてみる。下へ移動していくと、実際にリアルタイムでチャットしている男女のやりとりが画面に表示されていた。中には正視するのには耐えられないような卑猥な画像が混じっている。
作品名:神さま、あと三日だけ時間をください。 作家名:東 めぐみ