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 伏せた目の縁では、彼が呼吸するたびに睫毛が微かに揺れている。閉じられているから判らないが、目は大きい方かもしれない。鼻筋はスッとしており、口は下唇が少し厚い。髪はフワフワと柔らかそうだ。
 まるで王子様。浮かんだ言葉はすんなり彼の型にあてはまった。小さい頃にテレビで見たアニメ映画の中に似たような人がいたはずだ。その人は白馬に乗っていた。
 そこまで考えて豊は、自分の思考に戸惑いを覚えた。まさか同性にむかって王子様みたい、と思える日が来ようとは。
 なんという乙女思考なのだろう。豊自身でも自分の中に女の子が思うような心理構造が成り立つなんて、夢にも思わなかった。それでも隣りの彼が放つキラキラは、それを可能にする力を持っている。そう思わずにはいられない。
 豊は彼の顔から目を逸らすと、きっちりと着こなされたシャツを眺めた。
 右胸のポケットの入り口には、藤と万年筆が濃紺の刺繍糸で縁取られて、留められていた。豊の通う高校のものとは違うそれは、二駅先の高校を示している。彼が通っているのは文武両道を掲げる豊の高校とは違って、進学校の部類に入る高校であった。
 顔も良くて頭の良くて、か。
 先ほど感じた嫉妬がとても恥ずかしくなった。初めから嫉妬を感じていいような人間ではなかったのだと、気持ちが沈んでいく。
 羨ましさと怖いもの見たさが絡み合って、もう一度確認するように整った顔を見上げれば、白い肌が儚げであった。
 白いというよりも青白い、のかもしれない。
 青ざめているだけではない。眉は顰められているし、電車が揺れるたびに踏ん張るようにポールを握り締めているのが判った。
 気分が優れないように見える。
 繊細そうな外見とは打って変わって、という人物もいるが、この人は本当に見たとおり繊細そうだ。
 そして、豊は迷った。ここで声を掛けるべきかどうか。
 気分が悪いのなら席を譲って、少しでも落ち着かせたい。しかし、それは、彼の男としてのプライドを傷つけるのではないか。同性に席を譲られるなんて。
 それでも、やはり調子が悪いのなら無理する必要はないと思う。プライド云々は健康体の時に考えればいいのだ。
 豊は忘れたままになっていたイヤフォンを耳から外し、コードが絡まるのももどかしく、携帯電話と一緒くたにして鞄の中に押し込んだ。
 頭の中が緊張でぐるぐる回りそうだ。ただ席を譲るだけ、それだけのことなのにこんなにも緊張でガチガチになるのは、生まれて初めてバスの中でお年寄りに席を譲った時以来だ。
 鞄の持ち手を握り締めて、落ち着きが戻るよう息を吐く。それを数回繰り返すと、豊は意を決した。
 「大丈夫、ですか?」
 思いの外、音量は小さくなった。掠れることはなかったので、聞こえはしたと思う。
 豊の声に、彼が伏せていた目蓋を開けた。思ったよりも、目は大きくない。むしろ、上品な切れ長だった。
 豊を見とめた目はびっくりしたように大きく開いた。突然、声を掛けられれば、誰だって驚くものだ。
 「気分悪いんなら、ここ。座ってください。俺退きますんで」
 目が合って跳ね上がった心臓の速さのままに、豊は捲くし立てる。彼は少し笑ってから、申し訳なさそうに首を振った。
 でも、と口にしかけた瞬間、車両内に聞きなれた女性のアナウンスが響いた。もうすぐ駅に着く。電車はスピードを落として停車体勢に入っていった。
 繰り返すアナウンスに、彼は人差し指でこの駅で降りることを示した。元々降りるであろう彼の高校の駅は、まだ少し先だ。
 豊は勢いよく立ち上げると、ごった返し始めた扉前の彼の横に立った。背丈は彼の方が頭半分ほど高い。ほっそりとした身体が人の波に押されてよろめかないよう、豊は彼と他の乗客の間に入り込んで壁になった。
 驚く彼の唇が動いていたが、声は終ぞ聞こえてはこなかった。
 電車は難なく停車し、プシュウと音を立てて扉を開く。我先にとホームに流れだした人の波に逆らわず、豊はそっと彼の肩に手を添えてゆっくりと電車を降りた。
 二人が降りきる前に乗り込んでこようとした年上の女性とぶつかりそうになって、眉を顰められた。豊が軽く頭を下げて、顔を元の位置に戻した時には、彼女の顔は惚けた表情に変わっていた。豊が頭を下げた拍子に、後ろにいた彼の顔が見えたのだろう。
 目に入った一番近いベンチによろめく彼を腰かけさせると、発車のベルが時間を告げ出した。元より病人をほったらかして乗る気もないので、豊も隣りに倣って座った。
 雨はまだ少し降り続いていた。小雨というよりは霧雨に近い。
 顔を覆って前屈みになっている彼の背中を摩るべきかどうか、迷う。
 知りもしない相手に触られるのは嫌だろうか。豊自身、他人とのスキンシップに抵抗はない。触られて嫌だと思った記憶もこれまで、特に無い。
 しかし、それは自分だけの感覚であって、他人に身体を触られれば、少なからず不安を煽る可能性は大きい。極端な話、握手すら難しい人もいるのだから。
 彼の背に出そうか出さまいか迷った左手は、結局、膝の上で握りこぶしになった。
 目の前の電車が風を巻き上げて走り去ると、誰もいなくなったホームはガランと静かになった。
 「大丈夫ですか?」
 電車の中で聞いたことをもう一度聞いてみる。今度の彼は顔も上げず、コクリと頷いた。初めから会話は求めていなかったので、そこで元の静けさに戻る。
 乗っていた車両内は湿気と埃と汗の臭いで溢れていた。きっと人の臭いに酔ったのだろう。
 吐き気があるようにも見えないので、少し座っていれば徐々に持ち直していくだろう。
 背中を摩るにはやっぱり勇気が出ないので、冷たい物でも、と売店を探してホームを見回すも、この小さい駅には設置されていないようだ。ホームの端に自動販売機が光っていたので、そちらまで行くしかない。
 豊はベンチから立ち上がると、まだ下を向いている彼に背を向けて、足を踏み出した。
 しかし、二歩目を踏み出そうとした身体は反対に引っ張られて傾いた。危うくひっくり返るとこを踏み止まったが、いきなりの力に度肝を抜かれた形になる。
 まだクエスチョンマークが浮かぶ頭を振り向かせると、ウエスト辺りのシャツの一部が白い手に引っ張られていた。
 それ見えていても彼に引っ張られていることを理解するまで、数秒かかった。
 ついに吐きそうなのかと思い、豊が、どうしたんですか、と聞こうと彼を見た瞬間に、それはどうでもよくなった。
 彼と目が合った。
 先ほど電車内で一度合ったそれとは力が違う。見据えるような視線に目が合ったというよりも、捉まったというのが正しいような気がする。
 そして、この視線はよく知っていた。何度も何度も浴びせられてきた。
 こいつだ―――
 気になって躍起になって探した相手がまさかこの彼だとは。信じられないという気持ちが膨れている。
 それでもやっぱり豊はこの視線を知っていた。
 もし相手を見つけたら、聞きたいこともあったし、言ってやりたいこともあった。しかし、想像していた今になると、考えてもいなかった言葉が口から出た。
 「あんた、名前、何」
作品名:ai 作家名:HINEMOSU