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祝祭日以外、毎朝、学校に行くために人がひしめく電車に揺られる。
乗客は会社員に、個々の制服姿の学生達が主。
混み具合は何も掴まなくても立っていられる、なんてことはなく、それでも乗客全員の顔が見える程ではない。座席に座れればラッキーといったところだ。
そして、今朝はラッキーだった。乗り込んだ瞬間にドア傍の席に座っていたサラリーマンが慌てたように立ち上がり、発車のベルが響くホームに下りていった。チラリと見えたその顔が眠たそうだったので、危うく居眠りで乗り越すところだったのだろう。
ご苦労なこった。
運良く空いた座席に浅く腰かけて、豊は周囲に目を配る。見える範囲に座るべき人はいそうにない。改めて心置きなく深く座り直すと、背もたれに身体をあずけた。
電車はホームを後にして、緩やかに加速し始める。
豊は鞄からイヤフォンを取り出して携帯に取り付けた。耳にイヤフォンを差しながら、片手で音楽再生プレーヤーを呼び出すと直ぐにギターの音が鳴り響く。
いつもこうして学校に向かう。毎朝、同じ時間の同じ車両で、知らない乗客と隣り合い、音楽を聞いて、たまには本を読んで。今日みたいに座れる日もあって。
高校に入学してから始まった電車通学の日々にも、三ヶ月も経てば慣れたものだ。
誰もが思い思いに閉じ込められた空間で過ごしている。新聞を広げたサラリーマンや、鏡を覗き込んでいる女性、楽しそうに話している同年代の学生達。座っていても見える景色はいつもと変わらない。
豊は何気ない風を装うって周りに目配りをした。
いつからか、毎朝、電車内で視線を感じるようになった。本当に、気がつけば、といった感じだったので、豊も初めは気にしないつもりでいた。
自分に限って、そんな筈はないと。
むしろ、毎朝誰かに見られているなんて自意識過剰だと思っていた。
だから豊は時間をずらすこともせず、車両を変えることもなく、同じ電車に乗り続けた。
半ば意地でもあった。
頑なに思い込んでいようとする頭で、視線の主が誰なのか、毎日電車を降りるたび、振り返ってしまう自分がいた。
しばらくすると豊は、毎朝電車に乗ると同じ車両の乗客を観察してしまうのが癖になっていた。
座っていると近くにいる乗客の顔は見えないものの、端から彼らには注意を向けていない。気にしているのは、少し離れた乗客だ。
電車が揺れるたびに、人と人の間から見える、また別の人を伺う。
大抵、このような隙間からチラリチラリと視線を感じるのだ。
一心に常に感じるのではない。間隔はまちまちで、一瞬の時もあれば、一分二分と分単位で見られていることもある。
嫌悪の視線ではなさそうなのは判る。ネチネチとした性質の悪い印象も受けないし、むしろ控え目と表現するほうが合っている気がする。
しかし、好意なのかと考えるとそれはそれで疑問が残る。そこまで熱さというか意図を感じないのだ。
ただ見ているだけと、好きで見ている、の中間。
しいて言うならば、好奇心。これが一番しっくりくる言葉な気がした。
豊には外見で特出した所はひとつもなかった。悲しいほどに、どこにでもいるような男子校生だ。身なりはそれなりに気にしてはいても、有りか無しかで問えば、まあ有りと言えば有り、と中途半端な答えが返ってくるのが関の山。自分でも女の子達に騒がれる機会がやってくることは、これからも無いと思っている。
電車はスピードを落として、隣町の駅に停車した。豊の隣りで扉が開くと、目の前に立っていたサラリーマン達が流れるように降りていく。
入れ替わりで乗車してくる人の小波に混じって、雨の臭いが鼻についた。流れ込んできた臭気に、電車内の空気がムワリと湿ったのが判る。
人と人との間の狭い面積で見えた窓は、水滴が張り付いて光っていた。
家を出る前に見た天気予報では、晴れの予報であった。傘など持ってきていない。
降りるまでに止んでくれたらいいけど。
曇り空を映した窓は見えなくなって、電車はまた走り出した。耳には相も変わらずギターの音が流れている。
今日はどうやら見られていないようだ。いつもなら豊が電車に乗り込んで一駅二駅が過ぎる頃には、視線に捉まってしまう。相手には豊がどの駅で乗車してくるのか、既にばれてしまっていた。
豊は小さく息を吐いた。
たまにこんな日もあるが、圧倒的に珍しい。
見られることを決して望んでいるわけではないにしろ、いつもあることが無いということは、どうも居心地が違ってやりにくい。
勿論、知らない誰かの視線に晒されていないことには安心する。清々しく一日が始められる。しかし、気になってしまう。溜め息の意味は、安堵なのか失望なのか判らなかった。
今日のところは乗客を観察する必要も無くなったようなので、豊は目を伏せてランダム再生で流しっぱなしにしていた曲を止めた。携帯電話の画面に映るライブラリでいくつかの曲を飛ばして、スローテンポの曲を選ぶ。
穏やかなベース音が響いて、曲が始まった。低い重厚なリズムの間に、電車のガタンガタンという振動が滑り込んでくる。
緩い心地良さに豊は目を瞑った。あと十分もすれば通っている高校の最寄りの駅に着く。眠るつもりはないが、この曲が終わるまでは微かな眠気と手を繋いでいたかった。
右側に重心をずらして、頭を座席のクッションと窓の間に預けた。冷房で冷えた窓はひんやりとしていて、湿った空気にうんざりしかけた気持ちを癒してくれる。
いろいろな臭いがこもった車両内で、直ぐ近くからふわりと良い匂いが漂ってきた。
甘いような切なくなるようなムスク系の香り。香水のそれなら選んだ人は趣味が良いと思った。
穏やかな音楽に、気持ちが落ち着く香り。本当にこのまま目を瞑っていれば確実に寝落ちてしまう。
このまま眠ってしまえば、きっと良い夢が見られる。
そんな直感を促す甘い誘いに、そのまま流されてしまいたい気持ちでいっぱいになった。しかし、自分が電車に乗り込むまで座っていたサラリーマンが慌てて電車を降りたように、自分もああなるのはよろしくない、と豊は目を開けた。
視界には変わらず乗客達の下半身だけが飛び込んでくるが、鼻はまだ芳しい香りを掴んでいた。
その香りの主は女性だとばかり思っていた。自分より年上の、会社勤めの綺麗なお姉さん。豊はチラリとでいいから顔が見てみたいと思った。
見えない糸を辿るように行きついた先は、どう見ても学生服の腰部分。
豊と同じ白いシャツに、茶色のベルトで締められた黒い制服のズボン。勝手な想像に期待して、勝手に裏切られた気持ちになった。萎えた心に、それでも匂いは覆いかぶさるように染み込んだ。
自分と同じ男なのにこんなにも良い匂いをさせるなんて、住んでいる世界が違うというか、存在位置が違うというか。
せめて顔がよろしくなかったらいい、と嫉妬丸出しの体で豊はコッソリと隣りのポールを掴んでいる彼を見上げた。
顔を見る前に目に入った腕は白く細く、それでも男性らしく筋張っている。
しかし、豊は彼の腕の滑らかさなど目が通り過ぎた瞬間に忘れてしまった。
彼は、綺麗な顔をしていた。
それは、豊が勝手に思い描いた女性像も太刀打ちできない。
乗客は会社員に、個々の制服姿の学生達が主。
混み具合は何も掴まなくても立っていられる、なんてことはなく、それでも乗客全員の顔が見える程ではない。座席に座れればラッキーといったところだ。
そして、今朝はラッキーだった。乗り込んだ瞬間にドア傍の席に座っていたサラリーマンが慌てたように立ち上がり、発車のベルが響くホームに下りていった。チラリと見えたその顔が眠たそうだったので、危うく居眠りで乗り越すところだったのだろう。
ご苦労なこった。
運良く空いた座席に浅く腰かけて、豊は周囲に目を配る。見える範囲に座るべき人はいそうにない。改めて心置きなく深く座り直すと、背もたれに身体をあずけた。
電車はホームを後にして、緩やかに加速し始める。
豊は鞄からイヤフォンを取り出して携帯に取り付けた。耳にイヤフォンを差しながら、片手で音楽再生プレーヤーを呼び出すと直ぐにギターの音が鳴り響く。
いつもこうして学校に向かう。毎朝、同じ時間の同じ車両で、知らない乗客と隣り合い、音楽を聞いて、たまには本を読んで。今日みたいに座れる日もあって。
高校に入学してから始まった電車通学の日々にも、三ヶ月も経てば慣れたものだ。
誰もが思い思いに閉じ込められた空間で過ごしている。新聞を広げたサラリーマンや、鏡を覗き込んでいる女性、楽しそうに話している同年代の学生達。座っていても見える景色はいつもと変わらない。
豊は何気ない風を装うって周りに目配りをした。
いつからか、毎朝、電車内で視線を感じるようになった。本当に、気がつけば、といった感じだったので、豊も初めは気にしないつもりでいた。
自分に限って、そんな筈はないと。
むしろ、毎朝誰かに見られているなんて自意識過剰だと思っていた。
だから豊は時間をずらすこともせず、車両を変えることもなく、同じ電車に乗り続けた。
半ば意地でもあった。
頑なに思い込んでいようとする頭で、視線の主が誰なのか、毎日電車を降りるたび、振り返ってしまう自分がいた。
しばらくすると豊は、毎朝電車に乗ると同じ車両の乗客を観察してしまうのが癖になっていた。
座っていると近くにいる乗客の顔は見えないものの、端から彼らには注意を向けていない。気にしているのは、少し離れた乗客だ。
電車が揺れるたびに、人と人の間から見える、また別の人を伺う。
大抵、このような隙間からチラリチラリと視線を感じるのだ。
一心に常に感じるのではない。間隔はまちまちで、一瞬の時もあれば、一分二分と分単位で見られていることもある。
嫌悪の視線ではなさそうなのは判る。ネチネチとした性質の悪い印象も受けないし、むしろ控え目と表現するほうが合っている気がする。
しかし、好意なのかと考えるとそれはそれで疑問が残る。そこまで熱さというか意図を感じないのだ。
ただ見ているだけと、好きで見ている、の中間。
しいて言うならば、好奇心。これが一番しっくりくる言葉な気がした。
豊には外見で特出した所はひとつもなかった。悲しいほどに、どこにでもいるような男子校生だ。身なりはそれなりに気にしてはいても、有りか無しかで問えば、まあ有りと言えば有り、と中途半端な答えが返ってくるのが関の山。自分でも女の子達に騒がれる機会がやってくることは、これからも無いと思っている。
電車はスピードを落として、隣町の駅に停車した。豊の隣りで扉が開くと、目の前に立っていたサラリーマン達が流れるように降りていく。
入れ替わりで乗車してくる人の小波に混じって、雨の臭いが鼻についた。流れ込んできた臭気に、電車内の空気がムワリと湿ったのが判る。
人と人との間の狭い面積で見えた窓は、水滴が張り付いて光っていた。
家を出る前に見た天気予報では、晴れの予報であった。傘など持ってきていない。
降りるまでに止んでくれたらいいけど。
曇り空を映した窓は見えなくなって、電車はまた走り出した。耳には相も変わらずギターの音が流れている。
今日はどうやら見られていないようだ。いつもなら豊が電車に乗り込んで一駅二駅が過ぎる頃には、視線に捉まってしまう。相手には豊がどの駅で乗車してくるのか、既にばれてしまっていた。
豊は小さく息を吐いた。
たまにこんな日もあるが、圧倒的に珍しい。
見られることを決して望んでいるわけではないにしろ、いつもあることが無いということは、どうも居心地が違ってやりにくい。
勿論、知らない誰かの視線に晒されていないことには安心する。清々しく一日が始められる。しかし、気になってしまう。溜め息の意味は、安堵なのか失望なのか判らなかった。
今日のところは乗客を観察する必要も無くなったようなので、豊は目を伏せてランダム再生で流しっぱなしにしていた曲を止めた。携帯電話の画面に映るライブラリでいくつかの曲を飛ばして、スローテンポの曲を選ぶ。
穏やかなベース音が響いて、曲が始まった。低い重厚なリズムの間に、電車のガタンガタンという振動が滑り込んでくる。
緩い心地良さに豊は目を瞑った。あと十分もすれば通っている高校の最寄りの駅に着く。眠るつもりはないが、この曲が終わるまでは微かな眠気と手を繋いでいたかった。
右側に重心をずらして、頭を座席のクッションと窓の間に預けた。冷房で冷えた窓はひんやりとしていて、湿った空気にうんざりしかけた気持ちを癒してくれる。
いろいろな臭いがこもった車両内で、直ぐ近くからふわりと良い匂いが漂ってきた。
甘いような切なくなるようなムスク系の香り。香水のそれなら選んだ人は趣味が良いと思った。
穏やかな音楽に、気持ちが落ち着く香り。本当にこのまま目を瞑っていれば確実に寝落ちてしまう。
このまま眠ってしまえば、きっと良い夢が見られる。
そんな直感を促す甘い誘いに、そのまま流されてしまいたい気持ちでいっぱいになった。しかし、自分が電車に乗り込むまで座っていたサラリーマンが慌てて電車を降りたように、自分もああなるのはよろしくない、と豊は目を開けた。
視界には変わらず乗客達の下半身だけが飛び込んでくるが、鼻はまだ芳しい香りを掴んでいた。
その香りの主は女性だとばかり思っていた。自分より年上の、会社勤めの綺麗なお姉さん。豊はチラリとでいいから顔が見てみたいと思った。
見えない糸を辿るように行きついた先は、どう見ても学生服の腰部分。
豊と同じ白いシャツに、茶色のベルトで締められた黒い制服のズボン。勝手な想像に期待して、勝手に裏切られた気持ちになった。萎えた心に、それでも匂いは覆いかぶさるように染み込んだ。
自分と同じ男なのにこんなにも良い匂いをさせるなんて、住んでいる世界が違うというか、存在位置が違うというか。
せめて顔がよろしくなかったらいい、と嫉妬丸出しの体で豊はコッソリと隣りのポールを掴んでいる彼を見上げた。
顔を見る前に目に入った腕は白く細く、それでも男性らしく筋張っている。
しかし、豊は彼の腕の滑らかさなど目が通り過ぎた瞬間に忘れてしまった。
彼は、綺麗な顔をしていた。
それは、豊が勝手に思い描いた女性像も太刀打ちできない。