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やさしい犬の飼い方(仮)

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 大学を出たその足で、俺は待ち合わせ場所に向かっていた。井上に指摘された首の痕には絆創膏を貼った。保健室に絆創膏を貰いに行ったら、養護教諭に「怪我したのに消毒しなくていいの?」なんて言われた。怪我なんかじゃないから苦笑いをして誤魔化した。何に使うかなんて口が裂けても言えない。……今日がレポート提出だけで良かった。キスマークを晒しながら大教室で講義を受ける勇気は俺にはない。押し寄せるムカムカで自然と早足になる。ムカムカの矛先は勿論、躾の足りない犬だ。

 待ち合わせ場所の駅前広場に着いて、辺りを見回す。待ち合わせスポットであるその場所は多くの人でごった返していた。俺はキョロキョロと辺りを見回す。
 ふと背後に気配を感じた。その瞬間、首筋にピリッとした痛みが走る。驚いて振り返ると――……その指に摘ままれている絆創膏が真っ先に目についた。首に手をやる。……ない。



「……何すんだよ」
「何で隠すの」
「恥ずかしいからに決まってるだろ。変なことすんな、ハチ」

 そう、俺が待ち合わせていたのは件の犬、ハチだ。なぜ駅前まで連れ出したかというと、ハチの買い物のため。居候生活で問題なのは主に服だった。俺とハチでは身長差があるので、俺の服を着せると裾が足りなくて格好悪いことになる。こんな状態じゃ外出もできない。それに下着だって、直接肌につくものだから出来れば共有はしたくない。というわけで、とりあえず俺が金を出すから買い物に行こうと連れ出したのだった。

「折角つけたのに~」
 ハチは絆創膏をひらひらさせて唇を尖らせた。
「折角つけたじゃないだろ、返せよそれ」
 絆創膏を取り返そうとすると、ハチは摘まんでいた絆創膏を握りこんでぐしゃぐしゃにしてしまった。伸ばした指先は虚しく宙を掻く。
「あ……!」
「一回剥がしちゃったんだから諦めよ。ね、花ちゃん」
 ハチはにっこり笑う。それがどうも悪戯を楽しんでいる子供の顔にしか見えなくて、俺は呆れ果ててがっくり項垂れたのだった。




 駅前通りはファッションビルが立ち並ぶ賑やかな場所だ。平日だというのに人通りは多い。きっと中高生が春休みだからだろう。俺だって本当は春休みだったんだけど、補習やら特別授業やらのために、週三ペースで大学に通っている。ちなみに井上は図書館で勉強するために、自主的に通っているらしい。いつも赤点ギリギリの俺とは大違いだ。
 普通にしていたら割とイケメンな部類に入るハチは結構人目を引く。道行く女の子たちの視線が自分の隣に注がれているのを、俺は肌で感じていた。人混みを縫って歩きながら、隣の様子をチラリと伺う。すると視線に気づいたのかハチがこっちを見てニコッと笑った。この状況を何とも思っていないようだ。そりゃまぁ、慣れているんだろうけど。隣にいる自分が何だか不憫に思えてくる。
 俺の微妙な心境をおいてけぼりにして、ハチは上機嫌だ。


「手繋ごうよ、花」
「嫌だ」
「ケチ」
 こういう冗談をかわすのにも慣れた。ハチの言うことを真に受けちゃいけない。この二日間で学んだことだ。
 それでも、悪い気分ではなかった。ハチはよく俺にちょっかいを出してくるけれど、戯れで済むレベルと済まないレベルの境界線をよく分かっている。共有した時間はまだたった二日間なのに、ハチは俺の気持ちを敏感に察知してくれる。疲れているときは大人しくしているし、何となく寂しいときは黙って隣にいてくれる。ペットは飼い主の気持ちが分かるって言うけど本当にペットみたいだった。ハチは元々人の気持ちに敏感なんだろう。それは言葉足らずな俺にとって、すごく心地のいいものだった。

 二日前は雪が降っていたのに、今日は春らしい暖かい日だ。空は綺麗に晴れている。町行く人々も、どこか晴々とした顔をしていた。



 ――……と、駅前の歩行者天国を歩いていた時、隣を歩いていたハチが何の脈絡もなく足を止めた。数歩行き過ぎた俺も立ち止まり、ハチの様子を伺おうとした。けれど振り向く前に、すっとハチは俺の一歩前に出た……まるで俺を、背中に隠すように。不思議に思って背中からハチの顔を覗き見たら、ハチはいつもと微妙に違う――それはよく注意して見なければ分からない程度の――どこか不自然な笑顔だった。笑顔を作ったまま、じっと前を睨んでいる。空気が張りつめたのを肌で感じた。春の陽気の中にそこだけ黒い影が落ちたような、得体の知れない雰囲気が漂っていた。


「よォ、ワンコロじゃねェか」

 その声は人混みの中で妙に通って聞こえた。決して声が大きいわけでも、変わった声をしているわけでもない。けれどその声は気持ち悪いくらいにはっきりと、俺の耳に飛び込んできた。

「あー、半田さん。お久しぶりっス」

 ハチは笑顔を崩さずにそう言った。声は明るいのに目は笑っていない。初めて見るハチの表情だった。

「昼間に出歩いてるなんて珍しいっスね」
 俺はハチの背中越しに、半田、と呼ばれた男を盗み見た。歳は二十代後半だろうか。無精髭の生えた顎を撫で、もう片方の手をポケットに突っ込んでいる。一応スーツを着てはいたがヨレヨレで、言っちゃ悪いが柄がいいようには見えない。歪められた口元が軽薄そうな印象を与えている。
「いやァ不景気ってヤツでよ、最近は昼間も出てんだ……つーか、お前が居ねェと大変なんだよ」
 そこで言葉を切った半田は、途端に真面目な顔になった。

「なァ、戻ってくる気はねェのか。今だったら俺が口聞いてやってもいい」

 何の話だろうか、仕事の話?半田とは対照的に、ハチは表情を崩さないまま軽い調子で話している。

「申し訳ないんスけど、俺、もう戻らないッス」

 半田は顎を撫でて眠そうな目でハチを見る。ふとその視線がこっちに向けられた。無遠慮な、値踏みするような視線。それに気付いたハチが庇うように身体をずらしてきた。

「それは?」
「ただの友達っス」

 ハチの回答に半田はふぅんと鼻を鳴らす。

「譲ってくれよ」
「ダメ」

 ハチの知り合いなら別に挨拶するくらい構わないのに、ハチは半田の視界に俺が入るのを阻止しようとしているみたいだった。でかい図体めいっぱいで庇われる。

「ワンコロのお気に入りか」

 ハチが立ち塞がっているせいでその表情は見えないが、半田の声はどこか楽しそうだった。

「半田さん、こいつはただの友達ですから」
「あーはいはい分かったよ。相当お気に入りってことがな」
「半田さん!」

 たしなめるようなハチの声。半田は背中を向け、手を肩越しにヒラヒラ振りながら元来た方角へ歩いていってしまった。その背中が人混みに溶け、ようやく周りの音が戻ってくる。
 ハチはしばらく半田の消えていった方角を睨んでいたけれど、ようやくこっちを向いて力なく笑った。

「ごめん」
「いや……知り合い?」
 俺は口ごもる。
「昔の仲間」
 ハチは短くそう言った。でも仲間というにしてはハチのそれは妙によそよそしく、一線を引いたような態度だった。何より自分の知らないハチの世界の、その深淵を覗き込んでしまったことに、俺は少しの不安を覚えた。
 ――きっとその世界は、半田が纏っていた空気と同じ、暗い色をしている。