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やさしい犬の飼い方(仮)

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 そんなに腹が減っていたのなら勝手に冷蔵庫の中を漁ればよかったのに、ハチは俺が帰宅するまで待っていたらしい。変なところで律儀な奴だ。三日ぶりだという食事を勢いよく胃の中に収めていくハチの姿を眺めながら、俺はどうしたものかと思案した。俺はヒモを飼い慣らせるほど裕福ではない。むしろ貧乏な学生で、何が嬉しくて会話筒抜けな壁の薄いアパートに住んでいるのかと時々虚しくなるほどだ。

「ごちそうさまでした」

 両手を合わせて律儀に挨拶をするハチに俺が言うことといえば、ただ一つ。

「そろそろ出ていってくれないか」
「やだ」
 即答。

「花はそろそろ諦めた方がいいよ」
「それはこっちの台詞だ」

 人一人増えればその分光熱費も水道代も、食費だって増える。自分一人養っていくだけで大変なのに、もう一人増えたりなんかしたらとてもじゃないが生活できない。

「じゃあ俺、バイトとかするから。それならいいだろ?」

 な?と小首を傾げて俺の顔を覗き込むハチ。
 生活費を入れてくれると言うのなら、俺にとっても都合がいいかもしれない。あわよくば家賃を折半なんかしてくれたら、ベッドの半分を喜んで差し出そう。

「まぁ、それなら……」
 そう言うとハチは目を輝かせて俺に飛びついてきた。そこは体格差というやつで、床に押し倒される俺。背中を強かに打ち付けて悶える俺に馬乗りになって、ハチはご機嫌だ。本当に犬のような奴だ。でも躾が必要かもしれないと、俺は内心溜め息を吐いた。



 次の日大学へ行くと、トイレの前で井上と鉢合わせた。

「……蚊が居るみたいですね」
 井上はあからさまに不愉快そうな顔をして呟くと、そのまま行ってしまった。何言ってんだ井上、夏じゃないんだから蚊なんて居るわけないだろう……と思いながら何気なく横を見て、トイレ前の姿見に映る自分の首元に初めて気がついた。
 襟足から覗く首筋に、赤い痕。母親からの遺伝で男の癖に色白な俺の肌に、その痕はくっきりはっきりと浮かび上がっていた。井上が言ってた蚊ってこれのことか?でも今は春だし蚊なんて居るわけないし痒くもないし、じゃあこれは……と考えて、俺はまさかの事態に赤面した。

 ……これは噂に聞くキスマークというやつではあるまいか。

 そしてこんな痕を俺が知らない間に付けられる奴と言えばただ一人。俺の背中に引っ付いて眠る、躾の足りない犬だけだ。
「ちょっ……待って、井上!」

 俺は慌てて井上を追いかけた。しかし振り向いた井上の不機嫌そうな顔を見たところで、俺は気付く。
 追いかけたところでどう言い訳しようっていうんだ?この状況を。彼女に付けられました、なんて咄嗟の嘘は、井上には簡単に見破られてしまいそうだ。かと言って本当のことを話して引かれたくもない。

「えーっと、あの、その……これはふざけて、友達に」

 半分は嘘ではない。が、もう半分は嘘だ。元々嘘を吐けないタチである俺は、いたたまれなくて口ごもった。井上は無表情で俺をじっと見ている。顔を上げられなくて、自分の爪先に視線を落とした。

「……やだなぁ先輩、俺は蚊だとしか言ってないですよ?」

 思いがけず優しい声色が降ってきて、俺はうっかり顔をあげてしまった――……そしてそのまま、凍りついた。
 井上は、口元だけで笑っていた。見透かすような刺すような視線に絡めとられて視線を反らせない。反らしてしまったら何か良くないことが起きる、そんなことを思わせる眼光だった。

「じゃあ、俺は授業あるんで」

 井上はスイッチを切り替えたように屈託なく笑うと、踵を返して行ってしまった。
 ――……井上は時々何を考えているのか分からなくて、怖い。俺は背中がぞくりと総毛立つのを感じた。