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やさしい犬の飼い方(仮)

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 昼過ぎに大学へ行くと、掲示板が気持ち悪いことになっていた。

「なんだこれ……」

 びっしりと貼られた同じポスター。「違法薬物の使用は犯罪です」とでかでかと印刷されている。白い紙と赤い文字のコントラストに目眩がしそうだ。

「ニュース観てないんですか、先輩」

 突然後ろから声をかけられて振り向く。そこには井上がいて、じっとポスターを睨んでいた。

「ニュースって、何かあったのか?」
 そういやニュースなんてしばらく見ていなかった気がする。一人でいるときは何となくテレビを点けてしまうのに、今はハチがいるせいか、あえて観ないテレビを点けようとは思わなかった。
「隣の大学の生徒が大麻で捕まったんですよ」
 ちらりと俺に視線を寄越し、井上は低い声でそう言った。機嫌が悪そうだ。
「……井上は、こういうの許せないタイプ?」
 井上は検察官になりたくてうちの大学の法学部に入ったんだと、以前聞いたことがある。
「……あんまり、いいとは思わないですね」
 言葉こそ控えめだけど、ポスターを睨む井上の視線は完全に憎しみが籠ったそれだった。俺は何も言えなくて井上の顔をじっと見つめる。


 井上は頭が良い。だから馬鹿な俺には井上が何を考えているのか分からなくて、たまに怖いときがある。でも基本的には俺になついてくれている可愛い後輩だ。
 井上は俺が一人でいるところを見つけると、友人達と一緒にいるときでも彼等と別れて俺の所へ来てくれる。そんなに気を使ってくれなくて構わないのに、井上は「俺がしたいからそうするんです」なんてことを平気で言う。
 俺はそんな井上が好きだ。そして今みたいな表情をする井上は……怖い。

「あ、あのさ」
 俺はこの空気を払拭したくて声をあげた。井上が俺を振り向く。
「井上、この間レポート手伝ってくれただろ。何かお礼したいんだけど」
 レポートを手伝ってもらったり分からない問題を教えてもらったりするのは今回が特別なわけではない。井上はいつも快く引き受けてくれるけど、だからと言って井上の好意に甘えっぱなしと言うわけにはいかないだろう。それに俺は仮にも先輩だ。一応、先輩としてのプライドがある。まぁ井上に関しては、あってないようなもんだけど。
 井上は目を丸くして俺の顔を凝視した後、にっこり笑った。


「え、先輩何かしてくれるんですか?」
「俺に無理なことじゃなかったら、だけどな」

 井上は数秒考えた後に少し腰を曲げて、俺の顔を覗き込んだ。

「先輩、今日忙しいですか?」
「いや、別に予定はないけど……」

 俺の答えに、狐みたいな切れ長の目が弓状に曲がる。

「じゃあ今日一日、俺に先輩の時間をください」

 時間?

「それって、一緒にいればいいってこと?」

 俺が訊ねると井上は笑顔のまま頷いた。その表情にホッとする。

「そんなんでいいの?」

 正直、居候のせいで今月が厳しい俺には願ったり叶ったりな申し出なんだけど。井上は勿論、と言って、背中を伸ばした。

「デートですね」
「デっ……!」

 そして唐突に変なことを言い出す。井上はこうして時々俺のことをからかってくる。一番酷かったのは図書館の書庫でキスされそうになったことだ。すぐに笑い飛ばしてくれたから冗談だって分かったものの、俺はあの時本気で驚いて不覚にも照れてしまった。今思い出しても恥ずかしい……。



「じゃ、行きましょうか」

 井上に声をかけられて、自分より少し背の高い背中を追う。追いかけながら、俺は内心ほっとしていた――……大丈夫、いつもの井上だ。昨日の井上は様子が変だったから、嫌われてしまったんじゃないかと思っていたからだ。井上に愛想をつかされたら俺はどうなるんだろう。想像したくない。時々見せるあの怖い表情で拒否の言葉を吐かれるのが怖い。だからいつもどうにかして取り繕おうとしてしまう。我ながら情けないと思うけど、嫌われるよりはマシだと思った。