「神田川」の頃
ヒロコは少しずつ化粧をするようになっていて、ヒロシには姉のように接して、まるでヒロシが次の彼女を見つけ、うまく付き合えるように指導しているようにも思えた。
話があるからとヒロコから電話があったのは日曜日だった。ヒロシはパチンコをしてから夕食を食べて帰ったところだった。ヒロコは近くまで来ているからと言ったがもう駅に着いていて、神社の前で待っているということだった。
ヒロシが近づくと、ヒロコは少し悲しげな表情で「ごめんね」と言ったが、ヒロシには何が“ごめんね”なのかわからず、「ああ」と曖昧な返事をして近づいた。珍しくヒロ コはジーパンにTシャツで薄い上衣を着ていた。そしてあまり化粧をしていないようだった。出会った頃のような気もして懐かしく思えたが、表情は全然別人のように思えて、ヒロシは時間を飛び越えたようなめまいに似た感じを味わった。
「ちょっと前なのに、すごく懐かしい気がするわ、ここ」
神社の境内に入りながらヒロコが言う。
「一か月ぐらい前かあ」
ヒロシも感慨深げに言って、空気がかなり違っているのを感じた。どこかでコオロギが鳴いている。
ヒロコがベンチに座って、前を向いたまま黙った。ヒロシが脇に座ってから、「私ね、今日いろいろ考えたんだけど、会社を辞めるから」と言った。
ヒロシは、「ああそう」と言ったが、急なことで次の言葉が出ない。
「明日、社長に言うつもり、今までありがとうね。そして」
ヒロコはそこで、何か言おうか言うまいか逡巡しているように、黙った。
「また会えるのかな」とヒロシが聞くと、「ごめんね」とヒロコは言ってヒロシを見た。
ヒロシは、ああ最初の“ごめんね”はそういうことかと納得した。だんだんとどこかがずれてきているとうすうすは感じていたが、はっきりと別れということになって、寂しさとともにすっきりしたという感じもあった。
ヒロコは真剣な表情で「あなたは、ちょっと年下の可愛い元気な女の子が似合うわ」 と言った。