「神田川」の頃
何か胸にすっきりしないものを抱えながら、ヒロシの日々は過ぎていった。そのもやもやはヒロコの願っている男ではないという、漠然とした思いだった。しかし、どうすれば良いのかが分からない。遅くなったのでタクシーで帰るというヒロコを送って大通りを歩いている時に、「私ね、なんだかこわい」と歩道を歩きながらヒロコが小さな声で言った。ヒロシがその先を促すように黙ってヒロコを見ると、街路灯と自動車のライトがヒロコの顔を照らして刻々と表情が変わって見えた。ヒロコは前を向いたまま「身体だけが先に先に行くような気がするの、頭は一生懸命ブレーキをかけろって言ってるのに」と言った。
「それとね、このままこの関係を続けて行くと」と続けて、ヒロコはヒロシを見上げた。
少し前に抱き合っていたヒロコとは別人のように真剣な表情に、ヒロシは身構えた。
「二人ともダメになってゆくと思うの。経済的にではなく精神的にね」そう言ってからヒロコは視線を前に戻した。うつむき加減のヒロコは、また別の愛おしさが感じられて、ヒロシはまた好きになってしまいそうなのだが、ヒロコの言っていることは重く悲しい。
それに身体が好きになるのはいいのではないか、なぜブレーキをかけようとするのだろうとヒロシは考えてはみたが解からなかった。
「どうして」とヒロシが言った時、オートバイが大きな音をたてて通り過ぎて行った。
ヒロコは街路樹の下で立ち止まり、「これはニセアカシアという木だよ、知ってた?」と少し明るい顔になって言った。小さな葉が向かい合って並び枝になっていた。街路灯に照らされた葉を見ながら「あ、アカシアの雨が止む時という歌があったね」とヒロシが歌詞をつぶやく。
アカシアの 雨にうたれて このまま 死んでしまいたい……
「やあね、暗いわ」ヒロコは車道を見る。ヒロシは腕時計を見てから「どうしてニセがつくのだろう」と言った時、空車のタクシー来るのが見えた。
「ふつうはこれをアカシアってよんでるわ」と言いながらヒロコはタクシーに向かって手を挙げた。
「じゃあ」と短く言ってヒロコはタクシーに乗り込んだ。ヒロシはその車が見えなくなるまで見ていたが、ヒロコは振り返ることは無かった。
あの時、やって来た空車のタクシーを停めてヒロコを帰って行ったのだが、力強く抱きしめて「何も心配ないよ。ずっとヒロコを守ってやるよ」とでも言えば良かったのだろうか。二十歳のヒロシはそんなことは言えなかった。何もまだ成し遂げていなかったし、自信も無かった。自分には彼女がいるという誇らしさと語り合う楽しさ、抱き合う快楽しか求めていないし、将来の夢も無い。そんな風にヒロコは感じたのだろうと、かなり後になって思ってみたのだが。
それからも、回数は減ったが二人で遊園地に行ったり、食事をしたりはしたのだが、抱き合うことはなくなった。
だんだん夏の終わりを感じる季節になった。会社においてもヒロコは私にきびしく接していて、上司に「彼には特にきびしいね。好きだからなんだ」とからかわれるということもあった。私は複雑な思いで聞いていた。そして悲しいことに私は、なかなかヒロコが思っている男らしさと大きな夢をもつこともできないでいた。