飛行機雲の人
少しずつ空と雲が、窓を通り抜けてこの教室へと入りこんできた。
青い色がゆっくりと浮かぶ。微かに、うっすらとした空が教室の中にいる。
そして、 ……。無音の水。
どこからか静かな海の水が流れてきていた。ゆっくりとすべてを浸していく、冷たく深い水…。
かさ、かさ
Bは大きな紙を広げた、雲と空の位置を示した図表。紙の中には真っ青な空が広がっていた。
どこまでもどこまでも青い空。ああ眩しいな…。
俺の手は紙の空の中へ吸い込まれるようにして、触れた。
空に触れて、俺のこの目は青く染まる。
Bの目は黒いままだった。
教室中が空で溢れている。俺の体も心も空の世界へと入ってゆく。空につつまれる…。
澄みきった空気に体と心がからっぽになって、そしてとても暖かな力が流れてくるように感じた。
青い空を食べる。口を開いてゆっくりと体中に、心に空を満たそうとする。
清澄な空はこの心を涼やかに満たし、青い色はこの目に涙を浮かべる。
青い空を舐めた舌も青くなっているかもしれない。そう思うと少し楽しい気持ちになった。
俺は空と雲をいっぱい胸に吸い込んで、食べて、すこしくるしい。
俺の目は静かにBを見る。空ばかりの世界で、Bの目だけは冷たい黒い海。
海に底は無くて、様々な命を吸い込んだまま沈黙している闇だ。生と死をあわせ持つ。
教室はいつの間にか海で溢れていた。腰のあたりまで水に浸かっている。とても冷たい。
青く深い海。
雫を掬って、少し舐めてみた。やっぱりしょっぱい。涙の味だ。
海に手を浸して冷たい温度を肌に染み込ませる。心地よい感触。冷たい温度に、心は静かに安らぐんだ。
痛いほどに透明になっていく。
海と空の世界。
そして俺はまた、遠い空の景色に目をやった。空へ。
空の下。
小さな子どもがいる。手には、赤い風船。
あれは幼いころの俺だろうか、一人、空を見上げている。飛行機雲。届くはずがないのに欲しがっている子ども。
ふわり、俺は空へ浮かび上がる。
こちらをずっと、ずっと、見つめている子どもを見降ろして。
子どもの目はとてもまっすぐで、夢は叶わなくても、その瞳は輝いているんだ。人の想いは儚くて尊い。
俺はとても幸せな気持ちになった。子どもに心で話しかける。「お前の目は空だよ」
子どもの手から風船が離れた。
風船の中身は空気でいっぱい。なのにからっぽだ。とても軽い。
終わりのない空を見渡す。…ああ、空だってからっぽじゃないか。なんだ、そうか。
空はどこまでも果てしない…。